第85回
日本語に敬語があるわけ

どこの国にもその国の文化があります。
文化というと、茶道とか、能とか、桂離宮とか
ふだん私たちの生活とは縁の遠くなった
伝統文化を連想する人があります。
反対に国民の人たちのように、
文化住宅とか、文化洗濯挟みとか、
お手軽で便利なものに使われる場合もあります。
文化人などというのは、
さしづめ後者に属するものでしょうが・・・。

私は文化とはその国の人々が
ふだん生活をしている上で心を満たしてくれる
有形無形の仕掛けのことだと思っています。
料理にしても、娯楽にしても、
あるいは、男と女の関係とか、
会社の賃金体系や定年制度にしても、
その国の文化の在り方を示すものであります。
そういうすべてのやりとりの
仲介をするのが言葉ですから、
どこの国でもその国の文化を知る上で
1番役に立つのは言葉でしょう。
日本人のことを知りたかったら、
外国人にとって1番近道は
日本語をマスターすることです。

たとえば、日本語では私にあたる言葉は
わたし、わたくし、あたし、僕、オレ、
拙者、我輩、手前、ソレガシ、余、ウチ、オノレ、
と10以上もあります。
英語でも中国語でも1つの表現しかないのに、
どうして日本語にだけそんなにいくつもあるのか、
考えたことがありますか。

言語学者がどう説明するかわかりませんが、
私は日本人の社会は外に出ても家にあっても
その人のおかれた立場が明確に位置づけられていて、
目上や目下や同輩に対する言葉遣いの1つ1つに
配慮が必要だったからだと思っています。
男の使う言葉と女の使う言葉にも違いがあるし、
敬語がある半面、目下とか敵対者に対する
無礼な言葉遣いも本当によく発達しています。

少なくとも言葉の生い立ちから見る限り、
日本人は身分制のはっきりした
階級社会だったことがわかります。
いま敬語は大混乱をきわめていますが、
一朝一夕で消滅するものではありませんね。





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