第77回
よそ者だから生きられる
私は外国に行ってはじめての町に下り立つと、
もし自分が無一文に近い状態で
この町に放り出されたら、
ちゃんとメシを食って行けるだろうかと考えます。
どうしてそういう発想をするかというと、
24才の時に政治亡命をして香港に行き、
言葉もわからず、友達もなく、
学歴も役に立たず、心細い思いをしたからです。
頼れるものが何一つないところで、
どうしても生きて行かざるを得なくなると、
人間、何とかなるものなんですね。
先ずその土地の人と
同じことをやっていたのでは
土地の人に負けてしまいます。
人にやとわれていくら働いても
うだつはあがりません。
人のマネをして同じ商売をやっても
競争には勝てません。
ですから、どうしてもその土地の人が
やっていないこととか、
やれないことを考えます。
都合のいいことに、こちらは外国人ですから、
その土地の人が知らないことを
いっぱい知っているのです。
よそ者の目で見ると、その土地で商売をやっている人の
スキマみたいなものが見えてきます。
たとえばオーストラリアには
1年に10万人以上もの日本人観光客が訪れるのに、
シドニーでもメルボルンでもお土産屋には
ゴワゴワの羊毛のセーターしか売っていないんです。
お土産に買うものがほかにないから、
あれを買って帰る人をよく見かけます。
でもあんなお粗末な品物では
お土産にもらった人でも1回袖を通したら
おしまいでしょうね。
私なら日本人客が
喜んで買って帰るようなものを探してくるか、
そんなものが見つからなかったら、
自分で工夫して売れそうな商品をつくります。
どうしてお土産屋さんというのは
揃いも揃って同じ物ばかり売っているのでしょうね。
はじめてオーストラリアに行った時、
私はお土産屋に入っただけで、
自分はここなら無一文から出発しても
メシの食いっぱぐれはないなあと
妙な自信を持ちました。
だってみんな同じことをやってもちゃんと
メシが食えているんですもの。
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