第26回
私はコンサルタントのハシリだった

この頃、名刺をもらうと、顧問会社とか、
コンサルタントの肩書きをつけた名刺が多くなりました。
自分は何もやらないで、舌先三寸で人に助言をし、
それで飯の食える時代になったのでしょうかね。

そういう私も、
コンサルタントの会社をつくったことがあります。
確か昭和36年に私が株式投資でお金を儲けて
渋谷の東急本社のお隣に『マネービル』という
小さなビルを建てた時のことです。
まだコンサルタントというコトバすら
知らなかった人が多かった時代ですから、
恐らくコンサルタントの
ハシリだったと言ってもよいでしょう。

私は、株のことを執筆するためには
科学技術についてのある程度の
知識を持つ必要があると痛感していました。
新しい科学技術が新しい企業を生み、
それで産業界を大きくかえるだろうと思ったからです。
私は、中央公論社にのこのこ出かけていって
誰か科学技術のことをよく知っている人を
紹介してくれないか、と頼みました。
時の編集長が、吉村昌光さんという
毎週月曜日の日経の「科学と技術」という欄を
執筆している科学技術コンサルタントの人
を引き合わせてくれました。

この人は戦争中の科学技術将校として
軍から九大、東大、東北大に派遣されて、
造船から始まって、機械、電気、
一番最後には整形外科まで8つの学科で
勉強したという博覧強記の人でした。
経済と科学と2人で知恵をあわせれば、
新しい事業に進出しようとしている
野心的な企業家達に
いいアドバイスができるだろうと思ったのです。

そこで吉村さんの頭文字と、
私の頭文字をとって、
Y&Qコンサルタンツという会社を作って、
新しく建てたマネービルにオフィスをおきました。
でも吉村さんは、午後起床して科学の文献に目を通し
夕方から朝の8時まで銀座や新宿を飲み歩いて
それから家へかえって寝るという
堅気と逆さの生活をする人でしたから、
会社には1回か2回来ただけで
パートナーにはなってもらえませんでした。
それでも私は日本で先陣を切った
コンサルタントだったのです。





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