いくら難しい世の中になったといっても、私たちの手の届く範囲内には、必ずこうした指標になるような人がいるものである。成功例もあるし、失敗例もある。また「あの人のようになりたい」という人もあれば、「あんな人にはなりたくない」という人もある。そのいずれも役に立つもので、失敗例はどうして失敗したのか、成功したのはどうして成功したのか、いずれも生きた研究対象といってよいだろう。
もちろん、習うとすれば当然、成功した例に習うべきで、ふだんのつきあいだって、成功した人とつきあうに限る。成功した人の話をきいていると、その人の物の考え方、その人の物事に対する切り込み方がよくわかって、「なるほどこうすれば、うまく行くんだなあ」という要領がわかってくるのである。
この頃はコピーの機械がいろいろとできて、機械にかけると、オリジナルとそっくりのコピーができあがってくる。はじめて新しい仕事を考え出す人には創意工夫が要求されるからオリジナルはむずかしいが、人がやったことのコピーをするのなら、一から十まで「そっくりさん」ですぐに間に合う。また、失敗するか成功するかわからないものの真似をするのでは心もとないが、成功したのを見てからコピーするのなら、あまり不安はない。
ただし、なりふりかまわず、徹底的に真似しようとする熱意が必要であり、また人に何といわれようと、徹底的にやるだけの面の皮の厚さも必要である。つまり「人の真似に徹するのも知恵のうち」であって、子供の知恵のつきはじめは大人の真似であることからもわかるように、先覚者の真似をすることからはじめれば、やがて真似の域を脱することもできるようになるのである。自動車もテレビも、すべてそういう過程を経て、世界的水準の商品になったのであるから、スタートラインに立った人が人の真似からはじめていけないわけはないのである。
したがって新しいスタートをきる人は、「昔とった杵柄」をもう一度とってはいけない。昔体験したことについては固定観念が頭の中に一杯詰まっているから、新機軸を出せるわけがない。まして一度、失敗したことをもう一度なぞって、うまく行くわけがない。
どうせなぞるなら、失敗したあとをなぞるのではなくて、成功した人のあとをなぞって、二匹目のドジョウにありついたほうがよいと思う。 |