市村さんの奥さんは、逃げ腰になっているご主人に、もしあなたがここで逃げたら、一生、逃げる人生になるでしょう。どこへ行っても難しいのは同じですから、ここで困難を乗りこえてみて下さい、と押しとどめたのである。想いとどまった市村さんは、やむを得ず脈のありそうな小学校の校長先生のところへおそるおそる顔を出した。前に何回か説明のために長文の手紙を出した相手だったが、訪ねてみると意外に愛想よく迎えられ、
「実はいつくるかと思ってお侍ちしていました。あなたのような誠意のある人の保険なら入りたいと思って……」
と地獄で仏にあったような温かい言葉だった。それがきっかけになって市村さんは自信をつけ、保険契約日本一の業績をあげ、やがて大河内正敏博士に認められて、理研の一員に迎えられるようになったのである。
「ですから、こういうときは逃げ腰にならないことが大切なんです。失敗したことを皆に知られ、合わせる顔がないと思うでしょうけれども、人が笑うのもある時期だけで、時間がたつとうまいこと忘れてくれるものです」
「でも、失敗をしでかしたところで、私に何かやれるでしょうか」
「家が倒壊したって、散らばった瓦が一枚残らずこわれたりしません」
と私は答えた。
「よくよく調べてごらんなさい。崩れおちた瓦の中にも何枚かは、まだ使える瓦があるものです。その瓦を拾い集めて家を建て直す材料にすることからはじめたらどうですか？あなたから直接、損害を蒙らなかった人の中で、まだあなたに好意をもっている人はいるはずですよ。そういう人の力を借りることから再スタートするのが現実的だと思いますよ」
それからまた一年たって本人に会うと、一年見ないうちにすっかり顔色がよくなり、人相も往時の柔和さをとり戻していた。
「あのときセンセイから、瓦を拾い集めなさいといわれたのを、今でも忘れていません。実は、私が不始末をしてから少し時間もたちましたし、昨年暮れに昔の知合いに久しぶりに年賀状を出してみたんです。そうしたら返事があったり電話がかかってきたりして、どうしている、少しくらいなら手伝ってやるからたまには顔を見せなさいよ、といわれまして、また少しずつ昔の関係が修復できてきました。企画を立てて持ってきてくれれば話に乗ってあげる、ともいわれています。やはり壊れていない瓦もあることはあるんですね」
結局、昔とった杵柄で、また同じコンサルタントの商売に、少し形を変えてではあるが戻ってきたそうである。
仕事がうまく行かなくなったら、高飛びしたり、違う分野に移りそうなものであるが、人間なんて行動半径にも才能にも限界があるから、そんなに遠くへは行けないものである。
それにしても、時間ほどすぐれた名医がほかにあるだろうか。精神的打撃を受けて再起不能と思った重症からでも、「時間」という名医は一定の時間をかけてちゃんと立ち直らせてくれるものなのである。 |
