第二回目のピンチは、石油ショック後の昭和四十九年に訪れた。前回のピンチから十年の間に、私は自宅を含めて七軒のビルと建物を完成し、東京では八軒目のビルを新宿の靖国通りに建築中であった。このビルは敷地が二五〇坪、地下一階、地上一〇階の延べ一五〇〇坪で、土地がたしか二億五〇〇〇万円、建築費が四億五〇〇〇万円、清水建設が請負い、完成したら半分を分譲して、不足する建築費の一部は敷金で賄う予定になっていた。完成がもし半年も早かったら、おそらく予定通りにテナントもついただろう。
ところが、建築の途中で石油ショックにかかってしまったために、入居者が集まらなかったばかりでなく、私が賃貸している他のビルまでドンドンとテナントが出て行き、私は予定された敷金一億五〇〇〇万円が入らなかった上に、毎年、一億円ずつ二年続きで家賃が減収してしまった。家賃の一億円は、売上高と違って純益に近い金額だから、上下で金繰りに大きな影響が出てくる。
一方、建物の一部を分譲した利益には容赦なく税金がかかってくるから、私は税務署に一億八○○○万円の税金を払わなければならなくなった。払いたくとも金融引締め中だから銀行は金を貸してくれない。心ならずも私は滞納を申請し、ビルを担保に入れて税金を二年も待ってもらう破目におちいった。
これくらいなら私もそんなには驚かない。前回の体験で、不動産のピンチは一時的に金繰りがつかなくなるだけで、全財産を失うわけでないことを知っているからである。少し辛抱すればまた元へ戻れる見込みがあるのである。
ところが折悪しく、その二年前の昭和四十七年四月に私は二十四年ぶりに生まれ故郷の台湾へ帰り、機関車が同時に一〇台も動き出したような勢いで、約二〇杜ばかりの合弁企業や新規投資事業に全力を注いでいる最中だったのである。
石油ショックで物価は暴騰し、原料はあがるのに製品は値上げできない。大損するか滞貨の山ができるかのどちらかである。被害を受けたのはもとより私一人ではなかったが、私の関係した仕事でいえば、礼服を加工して日本で売る工場が一億四〇〇〇万円の損失、肉牛を飼育する牧場が四〇〇〇万円の損失、剣道具の加工場が六〇〇〇万円の損失、養鰻場は社長に傭った男に一億円持ち逃げされて一頓挫、冷凍食品工場は豚肉の暴騰のために輸出を禁止されて一年間、閉店休業、家具の工場が赤字の上に受注が途絶え、新しくつくった工業団地の土地は、さっぱり売れず、これらの企業のマイナス分がどっと私の肩にかかってきた。右を向いても左を向いても、金、金、金といわれ、金がなくなれば工場が立ち行かなくなってしまう。こういうときはどこに相談に行っても相手にされないから、私はジッとそれに耐えていたが、とうとう胃から出血して、入院してしまった。
台湾に私が二十年ぶりに帰った話は、台湾中の新聞に大きく報道され、多くの人が私の動向に注目している。私が東京で入院したことがわかると、「台湾の外資導入政策が氏の予想に反して意外に排他的なために、邱永漢氏は病気になって入院してしまった」と雑誌に書かれたりした。
政府のお役人のやり方には、たしかにそういう面があったことも事実であるが、私が病気になった本当の原因は、やはり何もかもうまく行かなくなって、どうしてよいかわからなくなってしまったからである。
のちに、「あなたの健康法は?」とジャーナリストにきかれて、私は、「中年をすぎてからの最高の健康法は事業に失敗しないことです」と答えたことがあるが、少しでも体験のある人なら、私のこの意見にきっと賛成してくれるに違いないと思う。
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