昭和四十年代に、私のところへ相談に見えた人々は、新規事業をやりたいが、というのが大半であった。ボウリング場にはじまって、スポーツ用品店、ゴルフ道具専門店、喫茶店、宝石店、画廊、学習塾などなど、考えてみれば、いずれもそういう時代がきてはじめて皆が着想するような種類の商売であり、その後、それぞれに栄枯盛衰のあった業種である。いつの時代でも新規に事業をスタートさせるのは容易ではないが、過去の四半世紀は、転業をするのが比較的楽であり、また転業しても定着のできる時代であった。
しかし、実際に多くの企業家のやったことは、転業ではなくて、経営の多角化、もしくは内容の換骨奪胎である。一つの商売をいつまでも続けていると、そのうちに駄目になってくる。
たとえば、燃料革命が起こって炭屋では薪や練炭や木炭を買ってくれる人がいなくなる。だから気がついたらいつの間にか、プロパン屋になってしまっている。プロパンもたいして伸びなくなると、薪置場にするために買っておいた広い土地にアパートやマンションを建てて、収入の多角化を図るようになる。映画と繊維は、この時代の代表的な斜陽産業であるが、これらの企業で、タクシーからホテルから不動産まで、多角経営に乗り出したところが多い。そのおかげでどうやら生きのびた企業も多いのである。
しかし、五十年代になると、これらすべてが困難になってきた。直接には、石油ショックがきっかけになったが、本当は石油の値上がりだけが原因ではない。石油の値上がりによって世界中が一挙に不況のどん底に突きおとされたが、一番影響を受けるはずの日本が不思議にもそのなかから起きあがり、アメリカやヨーロッパがなかなか立ち直れないでいる。これは「大きな政府」で引っ張ってきた一九三〇年以来の制度では、もはやニッチもサッチも行かないどん詰まりに来てしまったということであって、エネルギー問題が片づいたとしても、打開の見込みがないことを物語っている。そうした世界的な行き詰まりと日本の成長経済の終わりが、たまたま時期を同じくしたわけであるから、日本の場合は、両方の総決算を一緒にやらなければならないところに来ているといってよいであろう。
とにかく、あまり努力しなくても、年に二〇%や三〇%売上げがふえる環境はどこかに吹きとんでしまった。しかし、コストの上昇は遠慮会釈なくやってくる。このままでは、会社の経営が成り立たなくなる企業がふえてくる。
一方においてフル生産をしている企業があるのに、どうして自分のところだけ傾きかかってきたのだろうか、と首をかしげたくなる。実はそういう変化が多くの人々の頭の上にのしかかってきているのである。
右を見ても左を見てもそうなのだから、いくらか慰めにならないこともないが、真剣になって対策を練るべき時期にきていることに変わりはないのである。
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