死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第108回
儀式

「死に方・辞め方・別れ方」と題して、
この本を書きはじめたが、実際に執筆をしてみると、
いきなり「死に方」からは入れずに、
息子の結婚式からスタートしてしまった。

冠婚葬祭と俗に言われるように、
結婚式と葬式は人生における二大式典である。

いまは結婚をしない人もふえてきたから、
結婚式を経験しないで、
葬式だけ経験(と言っても自分はもう知覚がないだろうが)
する人もあるようになったが、
大多数の人にとって、結婚式は依然として「人生の門出」であり、
また葬式は「人生の終着駅」であろう。

いずれも重大事だから、のっぴきならぬしきたりがあって、
そのしきたり通りに行動をすれば、
たとえ退屈ではあっても、
誰からも文句を言われないですむ。

文句は言われないけれども、
その代わりガマンできないくらい
時代遅れになってしまったことをやるから、
自分も気に入らないが人からも嫌がられる。

その点、若い人は古いしきたりにあまりこだわらないから、
結婚式についても、新しい試みをしてみる。
パーティ形式で会費制にする人もあるし、
結婚披露はやめて二人で外国へ行き、
ガラス張りの教会堂で結婚式をあげるとか、
わざわざタージー・マハル(あそこはお墓だと思うが)
で結婚式をあげる人もある。

もちろん、どんな試みをしてもさしつかえないし、
本人にとっても思い出に残って結構なことであるが、
世間の90%の人たちはそういうやり方はしない。

相変らず、仲人を立て、神前かキリスト教式の結婚をやり、
親戚知友を招待して披露宴を張る。
すると、つい下手クソなスピーチを長々ときかされることになり、
かさ張るばかりで役に立たない引出物をもらって退散
ということが繰り返される。

葬式も全く同じで、
身近の不幸で気も沈みがちなところへ坊さんが乗り込んできて、
わけのわからないお経をあげ、騒々しく木魚や鐘を叩く。

騒々しくて腹立たしいから、
気がまぎれてよいのだという説もあるが、
葬式の形式としてはやはりキリスト教式の葬式の方が
一枚上ではないかと思う。

私はキリスト教徒ではないが、
告別式の式場や墓地で牧師さんの読む聖書の文句は
いちいち納得の行くものである。

うちの子供たちは、キリスト教徒でもないのに、
カッコよいというそれだけの理由で、
キリスト教式の結婚式を選んだが、
葬式には宗教的な区別があるから、
まさかカッコがよいというだけの理由で、
キりスト教式の葬式をたのむわけにも行くまい。

したがって「自分の葬式はこうやってほしい」と
非宗教的な注文をすることになってしまったが、
儀式というものは本来、宗教的なものであるからつい、
厳粛さにおいて劣ることは先ず避けられない。

しかし、すべての儀式は人が集まってやるものであるから、
人を集めることができ、
集まった人たちに満足感をあたえることができたら、
成功といってよいだろう。

そのために、パーティの進行について
あれこれ工夫することがこれからの
冠婚葬祭に課せられた宿題であると思う。





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2012年3月25日(月)

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