死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第98回
妻の定年

「個食の時代」ということは、
実は人間が一人で暮らさなければならない危険を
はらんだ時代であるということもできる。

アメリカで離婚が激しくなって、
どうせまた離婚をするのなら、
いっそ結婚しなければよいと
考える人が多くなったことも事実であるが、
男女とも平等に経済力を持つようになったことと、
平均寿命が昔に比べてうんと長くなったことと、
それから両親揃っていなくとも
子供を育てるのに不自由しないくらい
世の中が豊かになったおかげで、
これまでの結婚制度が
そのままではうまく機能しなくなったことが
離婚率の増大となって現れているのであろう。

これらの客観的条件はアメリカより一足遅れたが、
日本においても、いずれも同じように備わってきたから、
同じ現象が日本を風靡するようになることはまず間違いない。

若い人たちの間で離合集散が起るだろうことについては、
別に改めて触れるとして、
ここで問題になるのは、
中年から以後、たとえば定年退職の前後に
夫婦間の不和が突如、表面化し、別れ話が起る場合である。

一昔前ならば、男の浮気とか、
経済的な崩壊などが契機になって夫婦間に危機が訪れたが、
子供が一人前になったり、
性欲が衰えて浮気のチャンスが減れば
仲直りをすることが多かった。

ところが、最近は全く逆に、
もう子供も一人前になったし、
子供の縁談で引け目を感ずることもないから、
「私も辞めさせていただきます」といった申し出が多くなった。

男に定年があるように、
妻にも定年みたいなものがあって、
それを望む女性が増えたのである。

私は男が一生、健康で暮らすためには、
「死ぬまで現役」が理想であると述べた。

この意味で、定年のある人生は気の毒であり、
定年のある職業に就いている者は、
「定年後、渡りに船」と乗り継いで行けるような職業、
もしくは職業に近い趣味をあらかじめ見つけておく必要がある。

この乗り継ぎだけでも、
男にとっては大変な仕事であるのに、
最後の砦と思っている家庭へ帰ってきて、
また奥さんから、
「長いことお世話さまでした。
今日限りおいとまさせていただきます」と言われたのでは、
船を乗り換える間際に
後ろから押されて水の中に突き落とされたようなものである。

「なぜだ?」「オレのどこに不満があるんだ」
と三越の元社長のような名セりフになってくるが、
これこそ時代の動きに盲目な人間のズレを示すものであろう。

女の人は「黙って起立をする」というわけではないが、
自分から出て行こうとする。
それは長く亭主に仕えてきた妻の醒めた目から見れば
当然のことであり、
どうせ女の方が男よりも長生きすることは
統計的にもはっきりしたことであるから、
いつかは一人になるのを
少し早めに実現しただけQことにすぎないのである。

若い時も一人で生きてきたし、
妻を廃業したあとも同じように一人で生きていける。
「三界に家なき」ことが、
女を男よりもずっと強い存在に仕上げているのである。





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2012年3月15日(金)

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