死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第86
引き際の「美学」と「哲学」

いまの悪役たちは、
いずれも役割も性格も一本筋がとおっている。
自分の地位のために闘争するという
はっきりした動機があり、
したがってメロドラマを見ているように、
善玉がこうやれば、
必ずこういう具合に反撃するだろうと予想することができる。

芝居のストーリーは大体、
そういう具合にできているのがふつうだから、
簡単に幕をとじてしまったのでは、観客も失望するし、
ジャーナリズムも飯のタネに困ってしまう。
現に、この私だって、
そういう主役たちをとりあげて
あれこれあげつらっているのだから、
他人のことを噴ってばかりもおられない。

しかし、世の中で悪役をつとめる人たちは、
実像はおそらく心底からの悪党からはほど遠いものであろう。
だからこそ一族郎党が増えることはあっても
減る形跡を見せないし、
世間の風当りが強くなればなるほど、
身内の結束も堅くなるのである。

田中角栄という人は、
私も個人的に知っているが、
頭の回転の抜群によい人だし、
部下に対する面倒見もよい。
また義理人情にも厚いし、
大衆の心をつかまえる本能的なカンも持っている。
当代の政界でこれだけの逸材を探すことは
なかなかできないだろう。
そういう人が
なぜ悪役をつとめるめぐりあわせになったかというと、
本人に進軍ラッパを吹く時の「経済学」だけあって
引き際の「美学」と「哲学」に欠けているからである。

日本の政界は、私など門外漢が見ても、
派閥のボスをつとめるためには
大へんなお金のかかるところである。
野心のある人は、お金集めがうまくないと駄目だし、
一か八かの瀬戸際に立たされると、
これは不浄のお金か、きれいなお金か、
という見境もつかなくなってしまう。

恐らくロッキードの五億円だって
選挙のために右から左へと消えてなくなっただろうから、
貰った本人にもあまり貰ったという意識がなかっただろうし、
まして罪の意識などほとんどないだろう。

だから政敵にはめられたという意識の方が強く、
世間の攻撃にあえばあうほど
敵愾心を燃やすパターンでなければ、
とても悪役をかくも見事につとめられるわけがないのである。





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2012年3月3日(日)

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