第65回
台湾に生まれたばかりに
台湾人として中学や高校の入試の時点で
差別待遇されたくらいのことは何でもないが、
東大時代には台湾人であるが故に、
「重慶政府のスパイ」という嫌疑をかけられて、
憲兵隊に入れられたし、
戦後、台湾へ帰って、
国民政府の派遣してきた貪官汚吏たちを批判すると、
逆に「日本帝国主義的教官の害毒にかかった奴ら」と批難された。
官吏登用の道を閉ざされ、利権は壟断され、
言論の自由がないとなれば、
台湾の人たちに残された道は唯一つ、
別の国になるということしかない。
たまたま台湾の帰属について
まだ国際法的な決定がなされていなかったし、
大陸につくられた共産政権から極東の国々を防衛する必要上、
台湾を大陸から分離しようという意見が
アメリカの国務省や有力政治家たちの間にも出ている時であった。
そこで、私は「台湾の独立」を主張し、
独立運動に挺身する人々のためにジャーナリズムで論陣を張った。
しかし、アメリカや日木の努力にも拘らず、
中共の国連加盟は実現したし、
国民政府は脱退して、
自ら「アジアの孤児」への道を歩き出した。
この時期に、国民政府から私に台湾へ帰ってくれないか、
と呼びかけがあった。
もし国民政府が中国を代表し、
かつ勢いのよかった時代だったら、
もちろん、私は台湾へ帰らなかっただろうし、
国民政府だって私に帰ってきてくれとは言わなかっただろう。
私はどうしたものだろうかと悩んだ。
これからの国民政府の前途は多難であり、
下手をすると、大陸に征服され、合併されることもあり得る。
一人当りGNPが大陸の十倍もある台湾が
強制されて大陸の傘下に入れば、
台湾の人たちにとってはそれこそ世紀の悲劇であろう。
何とかしてこの悲劇を避けなければならない。
そのためには台湾の経済を発展させる必要があるが、
経済発展のために手を貸すとすれば、
私自身が台湾へ帰らなければならない。
台湾へ帰れば、「この前まで台湾の独立を主張していたのに、
変節したのか」と言われることも覚悟しなければならぬ。
「いや、情勢が変わったのだ。
情勢が変われば、昨日まで喧嘩をしていた者が一緒になって
カゴを担ぐことだって起り得るのだ」と説明しても、
そう簡単には納得してもらえないかもしれない。
「しかし」と私は考えた。
「遠吠えをするだけで、
絹のハンカチを汚さない方法があるくらいのことは
私も知っている。
そうすれば手は汚れないかもしれないが、
台湾の経済をよくすることはできない。
少しくらい人から誤解されてもいいじゃないか。
いちいち人の噂を気にして手の汚れるのを恐れていたら、
何もできないじゃないか」
そう思って私は昭和四十七年四月に、
実に二十四年ぶりに故郷の土を踏んだ。
台湾政府は、毎日、各新聞、一頁ぐらいのスペースをさいて、
連続一週間も私の記事を書かせたので、
私は一躍、台湾一有名な、伝奇上の人物になった。
その代わり、反対派の人たちからは
「国民政府に降伏した」と罵られた。
現に日本の雑誌でそういう意味のことを書かれた私は
「降伏というのは、相手の勢力の強い時に使う言葉でしょう。
風前の灯の時にそんな言葉を使いますか?」と反論したが、
昨年、ロサンゼルスで在米台湾人たちのために講義をした時も、
独立運動の人たちが私の罪状を並べ立てたビラをまきにきた。
警官たちが追いまわして
会場からしめ出したあとでそのことを聞いたが、
呼び戻して私の話を聞かせたら、と私が提案した時は、
残念ながら、もう一人残らず姿を消したあとであった。 |