第64回
死んだ時に定まる評価
自分の葬式について、人は考えてみるものだろうか。
蓋棺論といって、
「人間の評価は死んで棺桶の蓋をした時に漸く定まる」
という見方がある。
毀誉褒貶の多い人について、
とりわけ当てはまる人物論だが、
自らふりかえって見て、
自分もそういった人問の中の一人であると思えないこともない。
まあ、それほど大物でもないさ、心配するな、と言われれば、
それで納得しないこともないが、
私に対する毀誉褒貶は、私の文章家や
企業家としての態度ではなくて、
私の生まれ、つまり台湾に生まれた
という宿命とかかわりのある部分についてである。
もし人生を将棋にたとえたら、
私の将棋の手には、かなり難解なものがいくつかある。
それは私が偶然に台湾という土地に、
しかも父を台湾人、母を日本人として生まれたからである。
もし鄭成功という同じ境遇に生まれた先達がいなかったら、
「ハーフのくせに、余計な口を出すな」と言われて
チョンになっていたかもしれない。
幸か不幸か、鄭芝龍という、今で言えば、
日中密貿易グループの駐日代表ともいうべき海賊の親方と、
平戸の田川氏の間に生まれた鄭成功は、
国運の傾いた明朝に招かれ、
隆武帝から国の姓である朱姓を賜った。
この恩に報いるために、明朝と運命を共にし、
厦門、金門、媽祖と転戦して、
一番最後には台湾に陣取って清朝に抵抗した。
父親の芝龍が清朝に寝返ったのに対して、
明の遣臣として死に至るまで節を曲げなかったという意味で、
日本時代にも、日本人から異例の評価を受け
「開山神社」という廟に祭られた。
そのあと、台湾へ逃げ込んだ国民政府からも、
「成功祠」と名こそ変わったが、
大陸反攻の先達として、いまにあがめられている。
日本人は、母親が日本人だったという奇縁で、
日本人の子供たちにも参拝させる気を起したらしいが、
国民政府は自分たちと同じ運命を辿りながら
台湾で客死した先覚者として神格化しているので、
母親が日本人であったことには目をつぶっている。
日本人や中国人のように血統を重んじ、
純血に固執する国民としては
全く異例の待遇といってよいだろう。
その後光のおかげで、
私などもあらぬ中傷をされないですんでいるが、
私の場合は台湾に生まれたばかりに苦難の道を歩かされた。
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