死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第61回
解明されない「死後の世界」

そうしたなかで、最もお賽銭の多いのは、
やはり何と言っても地獄の神様である。
東獄大帝というのは、死後の世界を司る神様で、
この神様を祭った獄帝廟というのが
私の生家のすぐ近所にある。

最近は、この廟の巫男たちの祭事が面白いというので、
アメリカ人やドイツ人の民俗研究者たちの姿を
よく見かけるようになったが、
この廟の巫男たちは、死者との間の橋渡しをすることで
飯を食っている。

台湾全島から、死んだ親の姿を夢に見て
俄かに不安に駆られた人々が訪ねてくるのである。

うちの親はどうなっているか、と聞くと、
巫男のボスは先ず住所。氏名。本籍を聞き、
それから期日を決めて来てもらう。

住所。氏名。本籍を聞くのは、
実は、その人の戸籍謄本をとりよせるためである。

それを事前に見ておけば、親がいつ死亡したか、
また兄弟が何人いるか、その中で、
死んだ者はいないか
予備知識を仕入れることができるからである。

やがて依頼人が現れると、
先ず廟の後庭に導いて、そこで、神様に線香をあげる。
轎というご神像を載せる、小さな駕龍がいくつもあって、
その一つを巫男たちが前と後で担ぎ、
呪文を唱えはじめると、
そのうちに巫男に死人の霊がのりうつってきて、
いま、地獄の何丁目の何というところで苦役をさせられている。
お金がないために獄吏にいじめられているから、
早くワイロに使うお金を送ってくれとか、
寒いのに服が破れたままで着替えもないから、
早く送ってほしい、と口走る。

予め戸籍謄本で知識を得ているから、
お母さんはどうしているとか、叔母さんはどうだとか、
巫男が知る筈もない話が飛び出してくるから、
依頼人の方はますますのめりこんで、
遂には座男たちの口車に乗せられて、
一万元(一元六円)とか二万元出して、
紙でつくった豪邸や服や金銭紙(地獄で通用する紙幣)を焼いて
あの世に送ることになるのである。

大して教養のない市場の物売りが
こうした手に乗せられるならまだ話がわかるが、
医者のようなインテリまで巧みに誘導されて、
折角、患者から稼いだお金をまきあげられることも
しばしばである。
「死の世界」について
人間が如何に無防備な状態にあるかおわかりいただけるであろう。

孔子や荘子ほどの人物になると、
さすがに鬼神には心動かされず、不可知論で貫いているが、
「生死相あわず、なんぞ死をおそれんや」というだけでは、
現代人を納得させることはできない。

現代人にとっての「死」は少数の盲信者を除けば、
恐らく自然現象であり、
生物としての寿命の終りと受けとられている。

いまでも、仏教の信者とか
カトリックの信者とかいう宗派の違いはまだ残っているけれども、
字宙工学や遺伝子工学がここまで発達したら、
「神様は人間がつくったものである」
と神を畏れぬ言辞を弄しないまでも、
「神様は人の心の中に生きているものだ」
くらいに考える人が多くなったのではあるまいか。

そういう人々の心の中の変化を無視して、
相も変わらず古い信仰を押しつけようとすれば、
坊さんや牧師は精神世界のパイロット役から、
ただの葬儀屋に転落してしまう。

キリスト教の場合は、
まだ結婚と葬式の双方にまたがってやる仕事があるが、
日木では仏式の結婚というのは少ないから、
結婚式は神官が司り、葬式は坊さんが主催するという、
分業になってしまっている。
坊さんは逆に生きた魂の救済役から
葬式の執行人に転落してしまったのである。
どうしてこういう始末になったのであろうか。

思うに、多くの宗教が
時代の変化にうまくついて行けなくなったからであろう。
宗教を企業として見ることには
異論を唱える人があるかもしれないが、
精神生活のを売る商売だと思ったらいいのではあるまいか。

昨今のコンピューターのソフトは、
大半、アメリカから輸入されているが、
儒教も仏教もキリスト教も、
人間の精神生活を司るソフトであり、
神道を除いてすべて輸入品であった。

輸入品であっただけに、選り好みが可能であり、
儒教や仏教のように広く受け入れられて定着したものもあれば、
日本人のソフトメーカーによって独自に改良され、
国産品として販路を広げてきたものもある。





←前回記事へ

2012年2月6日(水)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」

ホーム
最新記事へ