死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第60回
人生、これ夢

死ぬということに、
私はまだそれほど実感を持っていない。
いつか死ぬ時が来るとしても、
死ぬまではともかく生きており、
生きている限りどう生きるか
ということにより心をひかれているからである。

「死んだあと、人間はどうなるんですか?」と、
ある人が孔子に聞いた。
「生きていることについてさえ知らないのに、
死んだ先の心配までできるか」と孔子は言いかえして
相手にならなかった。

自分は鬼神について喋らないことにしているのだ、
と孔子はわざわざ念を押している。

荘子は蝶になってヒラヒラと飛んでいる夢を見た。
夢から醒めて、「おや、さっきは夢だったのか」と思った。
さっきは蝶で、いまは人間だと気がついたが、
「待てよ」、と彼はもう一度思いかえした。
「いまは人間だと思っているが、
これだってひょっとしたら、夢じゃないのか」と。

「人生、これ夢」という考え方は、
荘子が初めて考えついたことではないだろうが、
「荘周、蝶を夢む」というのは有名なエピソードである。
こんな逆転の発想をするくらいだから、
荘子は人間が死ぬことをそれほど悲しいことだとは思っていない。

葬式に行くと、鐘や太鼓を叩き、
家族じゅうで声を立てて嘆き悲しんでいるが、
死んだ人がどんな目にあうのか、
何もわかっていないのに、
悲しむのがはたして正しいことなのか、
それすら疑いの目で見ているのである。

昔、艾というところの関守の娘が、
晋の王様に見染められて、お妃に所望された。

王様について行くと、
父親と別れなければならないので父と娘は
「こんな悲しいことがまたとあろうか」と言って
抱きあって嘆き悲しんだ。

のちに御殿で王様と賛沢三昧の生活をするようになった
関守の娘は、
「こんな楽しい生活が待っているとは知りませんでした。
あの時、何も知らずに、わあわあ泣き叫ぶなんて、
私って本当にバカだったのね」
と言って王様と笑いあったという。

その娘の故事を引用して、
死んだあとに楽しい生活が待っているかもしれないのに、
嘆くことはないと荘子は言うのである。
むろん、荘子のような頭の抜群に切れる男が、
死後に本当に素晴らしい世界があるなどと
信じこんでいるわけはない。

死ぬということは自然現象の一つであり、
悲しんでもはじまらない。
長く生きすぎることだって、
人生にとっては悲しいことなのだから、
適当に変化がある方がよろしいと思っているだけのことである。
それを荘子一流の笑いでとうかいしているのであろう。

孔子や荘子が死後について語りたがらないのは、
当時の人たちが孔子や荘子と
同じ思想を持っていたからではない。
むしろ、その逆で、のちに印度から到来した
仏教の影響もあったが、
そのずっと以前から、中国人は鬼神について盛んにあげつらい、
自分たちの能力を越えた自然界の未知のカの前に
恐怖を感じながら生きてきた。

仏教が伝来すると、印度人の過しい想像カに影響されて、
遂に天界、地獄の思想を受け入れるようになったが、
本気になって輪廻の存在を信じたかどうかあやしいものである。

仏教は、むしろ、民間信仰ともいうべき道教と混濁して、
一種、現世利益的な実利の宗教として根を下ろした。
仏寺というものはできたが、
それは現世の名利に失望した人たちが集まって、
脱俗の生活を送るところであり、
一般の人々は、それらの人々を
「死の世界」を司る専門集団と考え「生の世界」については、
『三国志』の中に出てくる関帝爺とか、
玉皇上帝、三界公、媽祖、王爺といった
民間伝承の神様たちのご利益にたよったのである。

ある時、私は糸川英夫先生と一緒に、
台北市で龍山寺というお寺に行ったことがあるが、
夜の暗がりの中で、線香を両手に握り、
一心不乱に祈りを捧げている人々を見て、糸川先生は、
「あれはトランス・インといって、精神の集中をしているから、
ストレスの解消にいいんですよ。
神様を拝むと、身体が休まるのです」
と言った。

私はそんな目で中国人の宗教を見たことがなかったから、
ちょっとびっくりしたが、龍山寺の本殿は
観音菩薩を祭ってあるのに、
後殿に行くと、媽祖や文昌公という
入学試験の神様まで祭ってある。

台湾は日本に負けない受験地獄で、
徴兵制があるために、一浪までは許されるが、
二浪はできない。
だから予備校も多いが、
入試の神様には殊のほか参拝者が多い。

媽祖が航梅の神様で、関羽がお金儲けの神様で、
文昌公は入試の神様である。
このほかに、失せ物探しの神様もあれば、
仲人専門の神様もある。

お産の神様もあれば、地獄の神様もある。
要するに、神様も専門化されていて、
専業であることがはっきりしている神様には線香が絶えないが、
田舎の医者みたいに何でも屋の神様は、
信者を失って閑散としている。





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2012年2月5日(火)

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