第44回
死への「願望」と「予感」
さて、話は一転して、おめでたい話から、
この世におさらばをする話に変るが、
私の友人で、自分は七十七歳の何月何日に死ぬだろうという
「予感」を持って生きている人がある。
人は誰でもいつかは必ず死ぬのだから、
いつ死ぬかを考えることのなかには、
「いつ頃死ぬのが望ましい」という「願望」と、
「いつ頃、死ぬ筈だ」という「予感」が入り乱れる。
霊感とか予感は人間に通有のものであるけれども、
これをあまり前面に押し出すと、キチガイ扱いされる。
といって、全く鈍感なのも、バカじゃないかと思われる。
予感が適当に働いて、自分の人生の将来に
やがて起るであろう変化を考慮に入れながら生きることは、
賢い方法であると思う。
私のその友人は実業家であり、社会的な成功者でもあるから、
自分の予感を他人に押しつけることはないし、
したがって、他人から狂信者とは思われていない。
しかし、自分ではいつ死ぬと信じきっているから、
その日を最後として、人生を終る準備をしている。
「何か根拠があって、そう思っているのですか。
たとえば、星占いとか、四柱推命とか?」
と私が聞くと、
「いや、自分でそう思っているだけのことですよ。
人に説明できるような理由は何もありません」
「すると、聞違うこともあり得ますね。
もっと早くに死ぬとか、
予定よりも、ずっと長く生き延びるとか……」
「それは考えられることです」
「そうしたら、どうなさいます?
予定したより長く生きると、具合が悪いんじゃありませんか?」
「本当のところ、その予定は立てていないのですよ。
自分の予感に確信を持って生きてきましたから」
とその人は笑った。
私も居合わせたほかの人々も、一緒になって笑った。
私の家のパーティで、三時間にわたる食事を終ったあとの
茶飲み話の席上でのことであった。
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