死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第40回
PR合戦になったスピーチ

結婚式披露宴の成否の鍵は何といっても、 スピーチである。
長すぎてもいけないし、短かすぎてもいけない。
型通りにやってもいけないし、あまり型破りであってもいけない。
同じような話がダラダラと続くのは、もっといけない。

とにかく、今度はもず君に下駄をあずけたので、
私は誰にスピーチを頼むかという報告だけは受けて、
細かい進行の段取りはすべて
「宜しく頼みます」で逃げてしまった。

先ず青井社長の仲人としての挨拶。
続いて祝辞は、新郎側は、嶋中鵬二中央公論社社長、
阿川弘之氏、ソニーの盛田昭夫氏、
そして、息子が一年、丁稚奉公に行っていた
リース・マンションの丸興の若い社長金沢正二氏。
花嫁側は、花嫁が勤めていた松下電産常務の鶴田三雄氏、
一関市長の小野寺喜得氏、
それに花嫁がこの世に誕生する時に手をかしたという
一関の産婦人科のお医者斎藤博氏、といった順序であった。

スピーチの途中で乾杯があるが、
これは最年長の谷川徹三先生にお願いすることにし、
あとは新郎新婦のクラスメイトが各一人ずつ。

多分、途中で安岡章太郎さんが
藤家虹二クインテットに申し込んで
とび入りでシャンソンを歌わせろ、
といったハプニングがあり得るだろうし、
中村武志さんに挨拶をしていただく時間も
とっておかなければならないだろう。

ところが、当日の朝になると、
谷川先生が風邪をひいて熱を出しているから出席できない
という電話が入った。
やむを得ず、開宴になってから、
脇村義太郎先生に急違、ピンチ・ヒッターをお願いした。
それはいいのだが、大ぜいの来客を前にして、
司会者のもず君も少なからず上がってしまい、
本人は全く気づかないが、スピーチをとちったりした。

その上、
来賓スピーチを両家から一人ずつ交替というルールを破って、
嶋中鵬二さん、阿川弘之さんと続け、
松下の東京支社長、一関市長とやったので、
思わぬ時間をとって末席に坐った私を
少なからずハラハラとさせた。

というのは阿川弘之さんの番になった時、
阿川さんは花嫁さんの出身地が岩手県であることから、
話が岩手県出身の海軍大将米内光政のことに及び、
遂に自作『米内光政』の PR にまで発展したからである。

途端に、洪水が堰をきったように、
松下はナショナル製品をよろしくといった話になり、
一関市長さんも中尊寺にはじまって一関の PR にこれつとめる、
ということになってしまった。
乾杯のあと、盛田さんの挨拶になると、
こちらも負けてはおられないから、
ソニーを一身に背負った形になり、第三者から見ると、
電器メーカーの PR 合戦がはじまったのではないか
という場面もあった。

途中で乾杯の挨拶に立った脇村先生は
「邱さんの坊ちゃんの結婚式だから、
今日は中国式の結婚式かと思って出てまいりましたが、
さっきからスピーチをきいていると、自分の宣伝ばかりで、
中国式というのは自分の PR ばかりすることでしょうかね」

と言って、皆を笑わせたほどである。





←前回記事へ

2012年1月16日(水)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」

ホーム
最新記事へ