第129回
その鹿を殺せ
人間の安楽死は色々な意見に分かれるのに、
どうしてペットは“殺せ”と皆一様に言うのか?
私達が尋ねると、
「ペットと人間は違う。苦しんでいる動物は殺すべきです」
と答えが返ってきます。
そこで、どう違うか尋ねても、
「違う」ということで答えになっていると考えているようでした。
「人間は動物とは違う」「だからモラルも違う」。
奴隷や植民地の人々を「我々とあれは違う」と分ける
昔のダブル・スタンダードのモラルも、
こういう精神構造だったのでしょうか?
それとも死にそうな動物はやっぱり殺すべきですか?
デンマークの少年少女小説で、誤って車にはねられた小鹿を
“勇気を持って”ナイフであの世に送る少年の話があります。
“小鹿は助かるか助からないか少年に判断できるのか?”
“少年の心に傷は残らないか?”
殺すのが平気になって“習い性となる”心配はないのか?
と、私には色々疑問が出てきますが、
少年の行為を作者は手放しで賞賛しているのでした。
付け加えると“死んだ鹿は後で食べるのか?”
という疑問も出てきました、これは本文と関係ないです。
ヨーロッパでは
“動物の運搬や劣悪な飼育場が動物を苦しめているから改善しよう”
という動きも近年盛んです。
動物愛護の国、イギリスの狐狩りもやっと禁止になりました。
“原罪”とは私達日本人には、
多分1番ピンと来ないキリスト教の言葉です。
原罪の感覚の妥当性を私が多少感じるとすれば、
私達が生き物を食べて生きていることを
実感したときかもしれません。
私は牛のステーキも鶏の丸焼きも喜んで食べますが、
生きているのをその場で殺して食べるのは余り嬉しくないです。
慣れないだけで、動物と人間はやっぱり違うのでしょうが。
“これでいいのかなあ?”という感覚は、
祖先の信じた仏教が
私にモラルとして残したものかもしれないです。
又は、私達も生き物なのですから自然な感覚かもしれないです。
ところがデンマークには、
農家の屠殺の現場を見学にいく幼稚園があるので、
私はあきれてしまいますです。
農家とはどんなものかと見学に行くのは良いことですが、
家畜を屠殺するところも見せようというのです。
テレビで見ていると、怖そうな顔や、
嫌そうに目をそらした幼稚園の子供達が画面に映っていました。
勿論目を輝かせた子供もいたと思います。
子供を教育する人の中には、全権を握った気になる人もいます。
少し変わっていて、自分の信念通りに極端に走る人もいるので、
子供を預けても安心できませんです。
12月23日の新聞では、デンマーク最大の畜産会社が、
初めて屠殺現場を一般に公開する事に決めたと載っていました。
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