第1043回
生きる
私が入院している時に
50歳前後の男性が長期で入院していましたが、
その人は意識はあるものの体が全く動かせず
顔はずうっと上を向いたままでした。
ですので目が覚めているときは
天井だけ眺めていることになります。
その男性は一人っ子で、
病院が開いているときは親が毎日来て、息子の面倒を見ていました。
私もその息子さんと年齢的にそう離れているわけではありません。
親御さんと話をしていると
今は私達がまだ生きていて面倒を見れるが、
年の順から行って先に私達は死ぬ、
そうなったときの心残りは
我が息子がこの世で天涯孤独になってしまう、
そのときに誰が最後まで面倒を見てくれるのか。
また、床擦れにならないか、心配することが山ほどあり、
死んでも死に切れない思いであるといっていました。
また私の知っている男性の奥さんで40代の方ですが、
脳梗塞で倒れた後、体全体が動かなくなってしまいました。
意識だけは正常です。
男性はとりあえず働いて生活費を工面することも大事です。
ですので、奥さんの面倒を24時間見ていることができません。
結局、奥さんには実家に戻ってもらい、
奥さんの親御さんが面倒を見るという形になりました。
男性は仕事の休みの時に会いに行くという形です。
このようになったとき、
本人の意志で体が動くわけではありませんので、
周りの人の助けが必要になります。
特に脳梗塞で後遺症が残ったときには助けが必要です。
それが一時的ならまだ本人も救いがあるのですが、
本人が生きている間ずっととなれば、
一生周りの人の手助けが必要なのですから
多大な負担をかけることにもなります。
そうなると本人は何のために生きているのか、
あるいは死んでしまっていたほうがよかったのではないか、
というふうにも考えます。
人の場合はどうかわかりませんが、私自身はいろいろ考えました。
特に“死”に対しては考えました。
単純に死ぬということから、死ぬということはどういうことか、
生きているということはどういうことか。
生きながらも死んだと同じような生活もあるはず、
夢も希望も持てないときは、これに当てはまるかもしれません。
当人が死んだあとも生きている場合もある、
特に書物などが後生に残っている場合は
文献が生きています。
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