おかげで『求美』は全盛期には一冊で二千万円近く広告収入があり、年に四回しか発行しないのに、年間を通じて業績が黒字化し、税金を払って残りのお金でマンションの一階分を手に入れることができた。
しかし、雑誌ほど油断のできないものはない。ひと頃は猛烈な絵画ブームになり、作家と号数と価格だけをきいてロクに現物も見ないで絵を買い、いくらになったら売ってくれと、株式投資のようなやり方をする投資家も現われた。高度成長が終わり、石油ショックがそれに追い討ちをかけて戦後最大の不況が訪れると、いつも展覧会を見に来ていた常連もパッタリ画廊に姿を見せなくなった。
「誌上展」に広告を出していた画商には、電話をかけて注文してくる人がいなくなり、そのうちに広告費の負担もしきれなくなって、『求美』誌は一冊出すごとに百五十万円ずつ欠損を出すようになった。内容もほとんど同工異曲におちいってしまったので、私は編集長にやめてもらい、編集部ごと私が手伝って見事に成功した『一枚の絵』の竹田厳道氏に引き受けてもらった。
編集長だった中野稔さんは、私のところで習い覚えた知識をもとに、自分で『月刊美術』を創刊し今日に至っているが、『求美』は満十年で私の手を離れ、一年ほど友人の元で余命を長らえたが、結局、時代の移り変わりには抗すべくもなく、美術ブームが去るとともにこの世から姿を消してしまった。
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