軽井沢にきた獣医
しかし、もうその頃には古い傷はかなり癒えていたし、流行歌の歌詞づくりにもいいかげんあきがきていた。何よりも芸能界のきたない面が目について、小説家稼業に馴染んできたものには、とてもたえられない気がした。
日本経済新聞で「ゼイキン報告」の連載をはじめたのを皮切りに、私は再び元気を取り戻し、執筆活動とビル建設と新事業をたまたま同時に進行させることになった。執筆活動は今も続いており、ビル建設は昭和四十八年の石油ショック後、七、八年中断したが、現在でもまだ時々、思い出したようにやっている。
しかし、その間にまたいつもの悪い癖が出て、丸井の青井忠雄社長に言わせると、「センセイはやった仕事よりもやらなかった仕事のほうが少ないのと違いますか」とひやかされるくらいいろいろなことに手を出した。そのなかにはビルの建設やビジネスホテルの開業や海外事業の展開など資産の確保に成功したり、業界の先駆者となったりした例もあるが、よくぞこんなバカげたことを考えたものだというものも枚挙にいとまがない。
バカげたことの代表例として、文藝春秋社長の池島信平さんから「邱さんほどのアタマのいい人が、あんなことを考えるなんて」と笑われた毛生え薬の開発という仕事もあった。
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