色気なら芸術?
昭和三十五年に登場した総理大臣の池田勇人氏は、就任演説の中で「所得倍増」というスローガンを掲げた。総理大臣が経済問題を組閣のスローガンにするのも珍しいが、所得倍増というきわめて現世的、かつ具体的な目標を掲げたのは、何にもまして新鮮であった。私はその年に、創刊された『週刊公論』で「会社拝見」という連載をはじめた。当時はまだ株のことがジャーナリズムに大きな顔をして登場して来ていなかったし、『東洋経済』とか『ダイヤモンド』のような経済専門誌に登場して来る場合でも、利回り買いに根ざした従来の手法による株式評論が多かった。
これに対して私は、「株を買うなら一流企業の株を買うな、これから成長する無名の小型株を狙え」といって、何が成長株か、具体的な例をあげながら紹介したので、私の推薦した銘柄はその日のうちにストップ高をし、それが次の週も、そのまた次の週もくりかえし起きるようになったので、『週刊朝日』でも「兜町に邱銘柄あり」と書かれたりした。
おかげで一年たらずのうちに、私は「株の神様」と揶揄半分でもてはやされるようになり、日本国中どこへ講演に引っ張って行かれても、会場は大入り満員の超満員になった。
しかし、この光景は、文壇から見れば、明らかに芸術家の領域からはみ出しており、まして昔気質の文士から見れば、「金銭ごときけがらわしいものにうつつをぬかして」と映る苦々しい行為であった。なかには「邱永漢に直木賞をやったのは間違いだから、取り返せ」と酔いに任せて銀座のバーで放言する文芸評論家もいた。
そういう噂が私の耳に入ってきても、私は苦笑するしかなかった。色気もお金も、小説の大切なテーマであるが、色気のことを書くと芸術家で、お金のことを書くと下賎ということはないだろう。しかし、そういう気風の漲っているところでは、いくら弁解しても無駄である。それでも私には原稿の注文が応じきれないくらいあったから、飢える心配はなかったが、私はいつの間にか芸術家の仲間ではなくなっていた。
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