金銭読本 邱永漢

「人とお金」を批評する

第9回
誰がために金はある その1

金の持っているいろいろな側面を書きながら、
いつも頭に浮かぶことは、
「いったい金は何のためにあるのだろうか」ということであった。

こんな素朴な疑間を抱くなんてどうかしていると
笑われるかも知れない。
金は究極においては使うために
あるものときまっているからである。
実は私も「金は使うためにあるもの」と思っているのだが、
もしそうだとしたら、「使うためにあるもの」を
人はどうして使わないで貯めておくのであろうか。

これに対して常識的に考えられる理由は、
第一に、人間には病気だとか天変地異だとか
人災天災など不慮の災難があって、
こうした時に備えなければならないこと。
第二に、人間はやがて年をとりいつまでも若い時のように
働くことができなくなるので、老後に備える必要があること。
第三に、家族の扶養について今のところは、
とにかく個人が責任を持たなければならないこと、などであるが、
では今日の社会保障政策が日指しているように、
これらの心配が全く皆無とまでは行かなくても
次第に解消されて行くとすれば、
人々の貯蓄欲もそれにつれて減退して行くであろうか。

こう考えてみると、話はむしろ逆であって、
生活に余裕がなく不安が伴う社会ほど(または個人ほど)、
貯蓄に対する関心がうすく、
その反面の社会(または個人)ほど貯蓄に熱心なことがわかる。
してみると、貯蓄とは将来の不安に備えるものではなくて、
むしろ金そのものに対する執着、
あるいは金をふやしていこうとする熱情によって
支えられているというよりほかない。
これは「金は力なり」によって代表される金権を背景にして
はじめてなり立つ行為であること言をまたない。

かくて最初は生活の手段として追求された金が、
いつの間にか権力の手段にすりかえられ、
「使われるもの」としての面が忘れられて、
「人をしばるもの」として猛威をふるい出す。
ところがうまくしたもので、
人をしばるための縄をなっている当人がまず
その縄にしばられるのが金と人との関係で、
生命をすりへらして金をためるということ自体、
矛盾した行為なのである。

むろん私は一代で巨億の富を築いた立志伝中の人や、
爪に火をともして小金を貯めた金貸し婆さんが、
素寒貧のくせに金持のことを悪しざまにいう貧乏人よりも
人間的にくだらないとは思っていない。
けれども金銭は、雪だるまの如くころがせばころがすほど
大きくなっていく半面、
少なければ少ないほど霧散して消えてしまうので、
そのまま放任しておくと、どこかに偏在してしまい、
いったい、金は何のためにあり、
そして、また誰のためにあるのか、
というわかりきった質間を提出せざるを得なくなるのである。





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2012年7月31日(火)

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