第6回
貯めるということ その1
人間が金を大事にするのは生活をして行くために
金が必要だからであるが、
同時にまた金を使うことに快楽が伴うからである。
それは単に金で快楽を買えるという意味ではなくて、
たとえば多くの女性がいそいそと
デパートへ出かけて行くさまを見てもわかるように、
物を買う行為やあるいは多くの男性が酒場から酒場へと渡り歩いて
全く無駄としか思えないような金をバラまく行為
それ自体の楽しみをも含めて考えなければならない。
その場合、同じ額の金を持っていても、
人によって金の使い方に相違がある。
ある人はおしゃれをしようとするだろうし、
またある人はお腹の中へ入れておいた方が
間違いがないと思うであろう。
かくて金の流れ方はまちまちになるが、
消費者の自由選択が許されている限り、
誰だって自分の必要や好みに応じて金を使うから、
心の満足は一応最大限の状態にあると見ることが出来る。
ところが都合の悪いことに、
その金が靴を買うことに使われるのか、
それとも酒を飲むことに使われるのか、
必ずしもはっきりきまっていない。
もちろん、経験によって一年に消費される靴が何千万足であるか、
大体のことはわかっている。
けれども予測出来ない事態が発生したり、
絶えず流行に変化をきたすので、
見込生産がはずれるような事態が必ずのように起る。
これは生産に計画がないからだといわれているが、
計画をいくら立てても、
必ず起り得る現象なのである。
この矛盾は価格が自由に放任されている場合には、
物価があがったりさがったりすることによって
自動的に調節される
さて、金を貯めるということは、
こうした快楽を抑制することにほかならない。
従って貯蓄はこれを一種の苦痛と見ることも可能であるけれども、
快楽を捨て去ることではなくて延期すること、
しかもさらに大きな快楽への可能性を作り出すことだから、
単なる苦痛ではなく、
人によっては楽しみでさえあるであろう。
たしかバルザックの書いた
『ウーゼニイ・グランデ』のお父さんは、
金貨を貯めてそれを毎晩勘定することに
言い知れない快感を感じていたように記憶している。
金を貯めるには金を儲けるにこしたことはないが、
金をいくら沢山稼いでも、
貧という字を見てもわかるように、
皆人に分けてしまえば、貧しくなるし、
また穴の中に身を弓のようにちぢめて窮してしまう。
実際、古今東西の理財家を見ても、
たいていは節約家が多く、
ましてや月々きまった収入しかないサラりーマンが
ある程度のまとまった金を作るためには、
一銭の金も半分にわって使うような、
みみっちい節約をやる以外に妙案はなさそうである。
逆に言えば、およそ金の出来るような人間は
必ずのようにケチンボであり、
またケチンボといわれることを恐れない。
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