第3回
金と女 その2
誰しも結婚生活には多少の夢を託しているから、
金と引きかえに男を他の女に売ろう
という気にはなれないものだが
売る売らないにかかわらず、
金には男を遠ざける一面があるし、
また金もない癖に遠ざかる男が
ざらにいることと考え併せると、
金と男と二つに一つということになれば、
どうしても他人に安心して預けておくことの出来ない男よりは、
銀行へ預けておけば利子がついて
帰ってくる金の方を選ぶ気持になるのは当然であろう。
私はすべての女が欲得で動くとは考えないが、
どちらかといえば、
女の方が男よりも金に敏感で金に執着を持っていると思っている。
そして、それは女が経験によって賢くなった
証拠であると思っている。
女が男に比べて金に執着を持っているのは、家計を任されていて、
限られた金の範囲内で
ヤリクリ算段をやって行かねばならないために、
金の有難さが身に泌みているというせいもあるけれども、
より本質的には愛情というものの頼りなさに
起因しているのではなかろうか。
男は家にいてくれといっても、
なかなかいう通りになってくれないが、
金は箪笥の中へ入っておれといえば入っているし、
油揚げに化けろといえば油揚げに化けるし、
着物に化けろといえば立ちどころに着物に化ける。
変化自在でしかも持主の意志通りに動く。
世話の焼ける男と比べると、
どう見てもこの方が魅力がある。
少なくとも安心感がある。
そこで金ほど頼りになるものはない、ということになるが、
それがまた女の弱点になって、『金色夜叉』のお宮のように
ダイヤモンドに目がくらんでしまったりする。
英雄は色を好むので、仮に英雄を関止めするものがあるとすれば、
それは美人の関であるが、美人は金を愛するので、
美人には金銭の関という関所がある。
古来、この関所を乗り越えることの出来た美女才媛は
残念ながらあまりその例をきかない。
男が金のために動くのも、もとをいえば、
女のこうした実利精神に一半を負っていると考えられる。
では世の中で金持が一番強いかというと、必ずしもそうではない。
「金持喧嘩せず」といわれるのは、
金持になると一事が万事鷹揚になって、
コセつかなくなるからではなくて、
むしろ逆に臆病風が吹きはじめるからだ。
金持は金がかわいい。
もし彼が幸福であるとすれば、
その幸福は金によって支えられているものであることを
十分認識している。
だから金を失うのは生命を失うにも等しい苦痛である。
ところが、「金銭魔多し」だから、
金持だといいこともある代りに禍もまた多い。
「無いより強いものはない」、とか、あるいは逆に
「玉を懐いて罪あり」
とはこの間の事情を示した言葉であろう。
そして、貧乏人は
生命と金をとりかえるような冒険をも辞しないが、
金持は金で生命を買い戻そうとするから、
金持には生命の関という関所がある。
金持が英雄の前に立つと顔色がないのは、
金持といえども生命はひとつしかなく、
しかも金持の生命の方が値段が高いからであろう。
すなわち、英雄→美女→金持→英雄という関係になっていて、
世の男たるものは、金持になるか、
もしくは金持を脅かすか、の二つに一つを選ばねば、
なかなか美女にありつけない有様にある
こうした関係は、金銭の絶大な魔力によるものであるが、
今日、経済学として世に通用しているものは、
人間関係を取り扱わず、たとえば、貨幣→商品→貨幣、
といった純粋に物質的な現象としてしか金銭を見ていない。
したがって、金銭の泣きどころである
「金銭を使うことから生ずる快感」、
それに付随して起る「快感を抑制して貯蓄することの快感」
などは一切不間に付せられている。
経済学が当然のこととして取りあげなかった
そうした面を究めることは多分、
経済現象の正しい把握のためにも、
また人間の生活を理解するためにも必要であろう。
それがこの稿を起す動機にもなっているのである。
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