服飾評論家・出石尚三さんが
男の美学をダンディーに語ります

第461回
ポケットに手を入れる前に

むかしマフというアクセサリーがあったのを知っていますか。
“マフ”muff。
時に「手套」などと訳されたこともあります。
今は流行りませんが、
19世紀の貴婦人にはずいぶん愛用されたものです。
小さい枕ほどの大きさで、筒状。
ここに両手を入れて手を温めた。
と同時に高価な装身具でもあったわけです。

たとえば現在のピー・コートには
たいてい高い両胸のあたりに、
マフ・ポケットが付いています。
これは手を温めるためのポケットなのです。
かつての海軍などでは規則がうるさくて、
両手をポケットに入れることは厳禁。
ただし寒風のなか、
見張りに立つ場合のマフ・ポケットだけは
例外とされたのです。

結局のところ“マフ”は貴婦人と、
“マフ・ポケット”は軍人と密接な関係にあった、
と言えるでしょう。
これもまた一例ですが、
ブリティッシュ・ウォームにも
マフ・ポケットが付くことがあります。
ブリティッシュ・ウォームは
ダブル前で肩章付きの、膝丈ほどのコート。
これも本来はコートだったのです。
では、マフ・ポケットはなぜ、
高い位置の両胸に付けられるのか。
それはまず第一に、
仮に両手をポケットに入れたとしても、
姿勢が悪くならない位置。
これは実際にやってみれば、すぐに分ります。
また、マフ・ポケットに手を入れる時には、
堂々と胸を張るべきなのです。
第二の理由。
それは心臓に近い場所でもあり、体温が高いので、
手を温めるのに適しているからです。

ゆっくりと眺めてみると、
マフ・ポケットはそれほど特殊なものではありません。
厚手コットンのアウト・ドア・コートや、
ダウン・ジャケットにも付いていることがあります。
でも、マフ・ポケットが付いているから、
手を入れておこうか。
という考えは少し単純かも知れません。
それは古き良き時代の遺物、
という一面もあるからです。
あえて手袋をはめて、元気よく歩いてみる。
男というものは、
ポケットひとつでも大いに悩むものなのです。


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