第130回
最後のドルチェで余韻が決まる
かつては
お酒を飲んでから甘いものを食べるというのが苦手で
イタリア料理でも
最後のドルチェをパスして
私はよくチーズを食べていました。
しかし本書で
イタリアで修業している
パスティッチェーレ(菓子職人)と出逢って
彼のドルチェを食べて以来
ドルチェまで行くぞ!と誓ったのは
何も、取材対象者に気兼ねしてのことではありません。
私が
ドルチェの意味に目覚めたからです。
きっちり作られたドルチェは
最後に再び
料理とは違う部分の食欲を刺激して
食べると、フィナーレのように締めくくられる。
舞台を見終わった後の、拍手喝采のような
高揚感が続きます。
けれどそれは
きっちり作られたドルチェの話。
あらためて、帰国後
何軒かのお店で食事をしましたが
お菓子を(食べるのがでなく、作るのが)好きでない
シェフのドルチェは、やっぱりわかります。
お料理が素晴らしくても
しょぼいドルチェだと、寂しい余韻が残って困ります。
イタリアのリストランテでは
日本人コックが
ドルチェの担当になることが多々あるように
器用な人は、ある程度作れちゃうんです。
日本でお店を出したときにも
専門のパスティッチェーレを置かず、自分で作ることが多い。
しかし現実問題、高級リストランテでない限り
パスティッチェーレ(菓子職人)まで雇う
人件費はないでしょうし
おいしければ誰が作ったって構わないとも思います。
困るのは、愛情のない
「こんなもんでいいでしょ」的なドルチェが
料理と釣り合いをもたせるためなのか
なぜかお高いというパターン。
不得意なら、そう言ってくれれば
チーズにしたのに。
……と、結局チーズまでオーダーしてしまった私は
なんだか敗北感。
ドルチェが不得意なシェフひとりの店で
誠意を感じた、こんな例があります。
シャーベットやジェラートなど
自分のできる範囲のことだけをやっていたところ。
それから
シェフでなく、奥さんが手作りしていた店。
完成された皿ではなかったけれど
素朴で、ドルチェLOVEな感じが好感もてました。
どちらもちゃんと、おまけ価格。
私はそれもアリだと思います。
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