至福の一皿を求めて おいしさの裏側にある話

第42回
『大坊珈琲店』の夏の夕暮れ

私がまだ、書く仕事の
入り口に立ったか、立たないかの頃です。
原稿用紙を持って
よくひとりで行っていたのが『大坊珈琲店』。
カウンターと、テーブルが2つくらいの
カフェでなく、珈琲屋です。
カウンターの中で
時々、マスターが煎った豆を選っています。

ブレンドコーヒーは、
1.30g 100cc 2.20g 100cc……というように
豆と湯の量で好みの濃度が選べ
客はたいてい「○番」と番号で注文します。
自家焙煎、ネルドリップで淹れられるコーヒーが
このうえなくおいしいことを
重々承知しつつも、私はここで
お抹茶茶碗に入ってくるミルクコーヒーを
春夏秋冬いただいていました。
しかも邪道なことに
仕事が早く終わった夏の夕暮れには、
ビールを飲むことさえあったのです。

その季節の、その時間
『大坊珈琲店』は窓を開けて風を入れます。
薄暮から夜へ
外の気配がうすいブルーから濃紺に沈んでいく
一瞬の変わり目は
現実感を失える時間です。
アルバイトを掛け持ちしている
ほんの隙間の時間。
コーヒーの匂いが染みついた木のカウンターに
頬杖をついて、
グラスに立ち上る金色の気泡を
ぼんやりと眺めているのが好きでした。

自分に何ができるのか
何をしたいのか、わからない。
そんなことを毎日毎日、考えていました。
底なしに不安で情けない萎みっぱなしの気持ちが
しゅわしゅわと上り続ける
まるい泡を眺めていると不思議に落ち着くのです。
今思えば、一瞬の
逃避だったのかもしれません。

『大坊珈琲店』の窓が閉まる頃
R246のクルマの音が遠のいて
ジャズだけが流れ始めると
私は席を立ってお勘定を払います。
ドアを開ければ
現実の時間に戻らなければならないことは
じゅうぶん知っていました。
それでも階段を下りて
R246の風に吹かれる頃には、
「まだできそう」な気がしてくるのです。

あれから
『大坊珈琲店』にはだいぶ行っていませんが
今でも時々
あのコーヒーの匂いと、カウンターの湿った肌触り、
金色の泡なんかを思い出すと
背水の陣で踏ん張っていた
胸騒ぎのような感覚が、さわさわ甦ってきます。
そしてこう思うのです。
私はあのころと
どこか変わったのだろうかと。


■大坊珈琲店
東京都港区南青山3-13-20-2F


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2004年2月17日(火)

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