至福の一皿を求めて おいしさの裏側にある話

第25回
自分がおいしいと思うものを作る

私のごくごく個人的な持論ですが、
秋田の秋〜冬の味、きりたんぽ鍋の印象は
「たんぽ」のおいしさが
その明暗をきっぱり分けます。

「たんぽ」は新米を使い
秋田杉の串に巻きつけ炭火で焼く、が基本ですが
東京のスーパーで売られていた(そして買ってしまった)
「たんぽ」のなんと寂しかったことか!
粘りけのない、ポソポソ、ボロボロの食感。
新米どころか、
お米の味も香りもないしろものでした。

けれど製造業者の欄を見ると
秋田の企業だったのだからショックです。
この人たちは、
本気でこれを作っているのか。
自分たちが食しているものと、暮らしている場所に
愛情をもっているのだろうか。
ただ田舎の名前を使って、
目先の利益を得ているのではないか。

そしてそれは
遠い目で見れば、自分で自分の首を
絞めることになるのではないだろうか。

毎年、私が送ってもらうのは
北秋田郡のご夫婦が作ってくれる
きりたんぽ鍋セットですが
身の厚いたんぽはもちもちで
新米の香りも豊かです。
きっと、手を真っ赤にしながら
熱々のごはんを
串に伸ばしたのだろうと想像せずにいられない。
そういう、作った人の手の感触が伝わるたんぽです。

その作り手は言いました。

「この土地のおいしいお米と、
おいしい地鶏の肉を分けてもらって
それが無くなったらその年はおしまいにします。
無理して、おいしくないものを作れないから。
秋田のきりたんぽは本当においしいんですよ。
私はそれを食べてもらいたい。それだけです」
(標準語訳)

作り手である自分たちが
自信をもって
おいしいと思うものを提供する、というのは
拍子抜けするくらい
あたりまえのように思えるけれど
実行するのはとても、とても難しいことです。


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2004年1月23日(金)

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