第77回
固有名詞を忘れる老化現象
だから、年をとらないようにしようと思えば、
今までに体験したことのないことを体験するように努カすることである。
歳をとると、同じことばかりくりかえし、
「老いのくりごと」といわれるのも、行動半径が狭くなると、
ふだん使わない記憶装置が錆ついてしまい、
ふだん使っている範囲内でからまわりするようになるからである。
錆ついた記憶装置のゴミを払い、
時どき、テープを動かしているのも、
活性化をとり戻す方法のーつである。
「懐かしのメロディ」が年輩者から歓迎されるのも、
昔の記憶は若い時に刻み込まれると、少々ゴミがかかっても、
ちょっと掃除しただけで再生が可能だからであろう。
そういった意味では、古い記憶を丹念に再生するために、
若い時やったことをもう一度、復習するのも
効果のある若がえりの方法であろう。
と同時に古いテープの上から新しく別の録音をするのも、
もうーつ効果がある方法に違いない。
歳をとってくると、どうしても記憶装置の再生がうまくいかなくなる。
私自身、若い頃は我ながら、
自分の記憶力は抜群だと思っていた。
本を読むと、どんなことが何頁のあたりに書かれてあったか
ということまで正確に記憶していた。
だから原稿を途中まで書いて、
「あの話はあの本に書いてあったなあ」と思いながら書庫に入って、
本の頁をめくると、すぐその文章にめぐりあうことができた。
物を書く人の中には、死んだ舟橋聖一さんのように、
どこに旅行に行くのにも、
必要な文献をトランクいくつもに詰め込んで担いで行く人があるが、
私はきめられた枚数の原稿用紙を持ち歩くだけで
資料は一切持って歩かない。
記憶を呼び戻して、正確さに欠ける場合は、
その欄だけ空白にしておき、家へ帰ってから、
文献をひっくりかえして、正確に数字や記述を補充する。
今でもそういうやり方をやっているが、
若い時に比べると、記憶力の減退は覆うべくもない。
とりわけ固有名詞を思い出せないのは
老化現象の特長のーつであろう。
使わなくなった固有名詞はどんどん記憶の底に沈んでしまうから、
きっと記憶を刻んでおくテープの中で、
固有名詞を糊づける力が弱っているのであろう。
将来、もし半導体の研究がすすんで
コンピュータの記憶装置からヒントを得て、
固有名詞の糊づけを強化するクスリが発見されたら、
頭の中の記憶装置はグンと性能が戻るかもしれない。
しかし、惚けの研究はすすんでも、
記憶力の恢復にまでは及びそうもないなら、
たった今食事を終えた年寄りが「私は嫁にいじめられているので、
ろくな食事も食べさせてもらっていない」
とくりかえすのを防ぐことすらできない。
いつもこだわっていることだけが記憶に残って、
壊れた頭のテープレコーダは
同じところを空まわりすることになってしまう。
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