第71回
持ち時間をきめるとスケジュールが変わる
人間はいつかは必ず死ぬとわかっていても、
今日はまだだろう、明日もまだだろえと一日延ばしにして、
いつまでも生きているような積りで毎日を送る。
そういう人がある日、病気になって入院をする。
入院して健康診断をしたところ、
不治の病にかかっていたことが判明し、
「あと半年の生命でしょうね」
「もう三カ月くらいもてばいいほうじゃないですか」と
「死の宣告」を受ける。
それも本人が受けるなら、覚悟ができていいが、
本人はまだもっと生きる積りで闘病に励み、
家族だけが本当のことをきかされたりする。
ガンにかかっていることを当人に知らせたほうがいいか、
最後までかくしたほうがいいか、
はいつも議論の的になっている。
病気というように、病は気から起こるものであるから、
本当のことをきかされてがっくり来て
死期を早めることはあり得ることである。
しかし、死期が近づいているのに
それを自覚せずに死後の準備を何もせず、
そのまま死んだほうがいいのかということになると、
これも問題であろう。
だから「ケース・バイ・ケースですよ」と
結局はウヤムヤになってしまうが、
これだけしょっちゅう話題になっているのだから、
自分が病床に伏した時に限って、
「良性のポリープだと思います」
という医者の慰めの言葉を本気にするのもどうかと思う。
死ぬときまったら、早々に死ぬ覚悟をしたほうがいい、
と私は自分に言いきかせている。
いやいや。
私はせっかちな性分だから、どうせ死ぬなら、
病気になってから死ぬ覚悟をするより、
元気なうちから死ぬ時期をきめておいたほうがいいと思っている。
そこで前述のように、七十七歳で死ぬことにきめたのだが、
いくら自分でそうきめても、天寿もあれば、
事故もあるから、七十七歳にならないうちに死ぬこともあるし、
七十七歳をすぎてもまだ生きていることもあり得る。
しかし、「この年に死ぬことにしよう」と
きめてからわかったことだが、
生きている時間がはっきり限定されると、
人間の物の考え方がかなり違ってくる。
とくに仕事の選び方、スケジュールの組み方がいままでと違う。
いままではただ漫然と、
昨年の続きの今年のスケジュールだったから、
空いている時間を頼まれた仕事や
かねてから計画していた仕事で埋めていた。
ところが、持ち時間がきまってくるとそうはいかなくなる。
たとえば、私は自分で勝手に「七十七歳で死ぬ」
ときめたのだが、
昭和六十三年の誕生日をすぎると六十五歳だから、
あと十二年は生きることになる。
自分では死ぬ日まで元気で働いておりたいと思っているが、
そうはうまく生かせておいてくれないかもしれないから、
あるいは最後の二、三年は
自由勝手に外国旅行に行かせてもらえないかもしれないし、
うっかりすると寝込んでしまうこともあり得る。
となると、時間を無視したプロジェクトを
ガムシャラに強行しても無意味だし、
一つーつの仕事を新しく計画する時にこの仕事は
自分がいくつになった時に完成するのか、
そのあと何年くらいたったら軌道にのるのか、
お金だけでなく、時間と首っぴきで
計算をしなければならなくなった。
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