第27回
なるべく年をとらないですむ法
医学の発達によって平均寿命が大幅に延びてきた。
それでも人間の寿命が尽きる時は大体きまっている。
七十歳で死ねば、まあ、そんなものだろうなとか、
七十五歳で死ねば、それも天寿だろうなとか、
その時代時代の常識というものがある。
ところが医学上、解決できなかった問題が
少しずつ解決できるようになると、
延びた平均寿命がさらに延びるようになってきた。
日本国中、一年たてば一年だけ平均寿命が延びて、
いまや老齢化社会は手の届く距離に入ってきた。
こうなると、どっちを向いても、年寄りだらけで、
若者や子供の姿が見当たらなくなる。二十年あまり前、
ヨーロッパへ旅行した折に、
どっちを向いても年寄りばかりだなあと
強烈な印象を受けたことがあった。
今に日本も必ずこういう社会になるだろうなと思ったので、
比較的早い時期に新聞で『年をとらない法』
という連載を書いたことがあった。
まだ日本の国で、
老齢化社会という実感がなかった時代であったから、
「あの人、何を考えているのだろうか」
と不思議に思われたに違いない。
しかし、お金は儲からなくとも、また人間、
利ロにはなれなくとも、年だけは確実にとるものである。
みるみる老齢化はすすみ、日本でも、寝たきり老人とか、
前途を悲観した老人の自殺が目立つようになってきた。
私の書いた「年をとらない法」も、
「人生後半のための経済設計」(日本経済新聞社刊)と改題され、
くりかえし重版されてきたが、
他に同じテーマを扱った本が
いくらでも出版されるようになったので、
もう今日ではさして珍しい本ではなくなってしまった。
「年をとらない法」などといっても、
年は必ずとるものだから、
それ自身が矛盾したタイトルといってよいだろう。
にもかかわらず、さしたる抵抗もなしに受け入れられたのは、
「なるべく」という先行詞が省略されているだけであることを、
誰でも知って いるからであろう。
ちょうど長生きと同じようなもので、
いくら長生きするといっても、今の常識では百五十年も、
二百年も長生きするわけではない。
それでも昔に比べれば、
相対的に長生きになったことはたしかだから、
せめて生きている間、
「なるべく」年をとらないですむ方法はないだろうか、
と考えたくなる。
たとえば、健康に気をつけたり、美容に工夫をこらせば、
他人に比べて織が少なくてすんだり、
肌にシミができないですむようなことは起きる。
美容が外観を若々しく見せるものだとすれば、
「年をとらない法」はさしあたり、
「精神的な青春保持術」とでもいったら、よいだろうか。
しかし、いくら高価な化粧品を使用しても老化に勝てないように、
いくら精神的な若さを保とうとしても、
寄る年波には勝てないものである。
同じ年の老人と比べれば、こちらはまだましだ、とか、
こちらのほうが上手に年をとっている、とか、
自分を慰めることはできるが、自分の子供とか、
子供と同年代の若者と比べて、
若さを誇ることはできないにきまっている。
年寄りが若者に向かって自慢できるような長所は、
意外にも、そんなにたくさんはない。
老齢化社会を生きる年寄りにとって、
これくらい無念なことはないだろう。
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