死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




第25回
分別とは年をとったこと

人生にも節目みたいなところがあって、
そういう節目のところで、年をとる。
六十歳で定年に達する人なら、
それを意識しはじめる五十五歳頃が節目ではないかと思う。

私自身の体験に照らし合わせていえば、
私は五十歳をすぎても、自分が年をとった
という自覚は少しもなかった。
五十歳すぎたら、仕事のことでも、三十代、四十代の時のように、
ガムシャラにやらないほうがいいという人もあるが、
私には年をとったという自覚がないのだから、
少し控え目にやろうか、という気はまったく起こらなかった。

ところが、五十五歳になると、
途端に年を意識するようになった。
どういうところが年かというと、
まず暑さ寒さが気になるようになった。
もちろん、これまでも暑さ寒さがなかったわけではない。
桜の咲く季節や紅葉になる季節がなかったわけでもない。
日本の文学はどちらかというと、
季節のことに異常に神経質である。
庭の樹々が若葉に変わったとか、
柿の実がなったとか、
そういうことをクドクドと記述している。
私は熱帯地方に生まれたので、季節に鈍感なのかもしれないが、
「天気」よりは、人間がつくる「景気」や
「人気」のほうに気をとられる。
ふと気がついてみたら、もう秋もすぎ、冬も終わり、
はや春になっている。

そういう生活が長く続いてきたが、
五十五歳から以後になると、
「おや、もうそろそろ秋風が吹きはじめたなあ」
「もうすぐ山に雪が降る頃だな」、
と季節の意識があるようになった。
年のせいなのか、それとも長く日本に住んでいると、
体質的に日本化してしまうのだろうか。
「何回かこういうことをくりかえしているうちに
死んでしまうんだな」と思ったりするところをみると、
やはり「年は争えない」のかもしれない。
と同時に、これまでガムシャラな生き方をしてきたのが、
「進軍ラッパばかり吹き続けるのもどうかな?」
と考えるようになった。
進め進めの人生を生きてきた人間は、
バランスのとれた生活などしていない。
自分が先頭に立って走るから、落伍者はいくらでも出てくる。
落伍する奴はたいてい、置き去りにして行く。
いちいち拾って歩いたのでは、
落伍者のペースで走ることになってしまうからである。

強気の人間にはそういった仏心がないから、
時々、うしろをふりかえると、
あとをついてくる味方は何人もいない。
自分の事業にしても、うまくいったものと、
しくじったものと、バラバラになっていて、
「うまくやってきたなあ」などお世辞にもいえない。
「もうこれから先は、いくら進んでも大したことはないんだから、
そろそろこのへんで体勢を整えないといけないのではないか」
そういう考えがふと頭をかすめるようになる。
すると今まで目の届かなかったところにも気を使うようになり、
それだけガムシャラに突進することができなくなる。
こういうのを、「分別」というのかもしれないが、
もしそうだとしたら、「分別とは年をとった」
ということではないだろうか。

私のように、定年が先に控えているわけでもなし、
いつまででも仕事を続けようと思えば続けられる人間でも、
ふと分別を働かせるようになるくらいだから、
三年後、五年後に定年を控え、
あとの身のふり方を考えなければならない立場にいる
サラリーマンはもっと悩みが深刻なのではあるまいか。

定年になれば、今まで長くつとめてきた職場とは
さよならをするようになる。
定年後の再就職先を会社が斡旋してくれる場合もあれば、
自分で探さなければならない場合もある。
子会社の社長や重役に横すべりできれば、
世間のきこえもそう悪くないし、収入もそこそこある。
ところが、自分で探さなければならないとか、
探す時のコネが弱いとなれば、
年金や退職金をもらうようになったとしても、
収入は一挙に半分におちてしまう。
誰しも定年と共に収入が減り、
生活のレベルが下がるのはいやだから、
何とかして定年後の収入源を確保することに頭を使う。
お金さえあれば、生活がまず安定するから、
とりあえず収入源の確保をし、
あとの身のふり方についてはまたゆっくり考えようじゃないか、
と二段構えの考え方をする人が多い。





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2015年1月16日(金)

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