第408回
江戸前料理の誤解 〜その2
鰻の蒲焼というのも、
もともとは筒きりにして串に刺して焼いたものが、
蒲の穂に似ていたからであり、
実際の蒲焼とは違っていたと「守貞漫稿」に記してある。
筒切りではなく、開いて串に刺す現在の形が
蒲の穂に似ているからと解説している記事は間違いなのだろう。
「守貞漫稿」は、
喜田川守貞が天保八年(1837年)から書き始めたもので、
衣食住などの庶民生活について、京坂と江戸を比較しており、
歴史文化を知るうえでの価値が高い。
現在では岩波文庫から「近世風俗志(守貞漫稿)」という題名で
宇佐美英機氏が校訂したものが5巻出版されている。
江戸前鮨が確立されたのも、文化・文政のころ。
屋台のスナックとしてだされていた鮨が
文化のはじめ、すなわち、1800年代のはじめに、
江戸深川の「松鮨」によって革命が起こる。
松鮨は、柏木松五郎という主人が、食材にこだわって始めた店。
柏木松五郎は、できた鮨を試食して、
気に入らないと捨ててしまったといわれている。
屋台では1カンが4文から8文で食べられたものが、
松鮨では250文したという。
現在の回転寿司と高級江戸前鮨の違いに似ている。
しかし、松鮨もにぎりではなく、
関西の押し寿司のタイプだったようだ。
にぎり鮨を発明したのは、華屋与兵衛という人物で、
文政4年〜5年(1821〜1822年)のころらしい。
与兵衛は鮨に山葵を用いるなどの工夫を重ね、
ついに「握り鮨」という画期的な製法をおもいつく。
この「握り鮨」は大変な評判になって、
狭い店内がいつでも「すし詰め」状態で
行列までできていたという。
以来、江戸は握り鮨が全盛になる。
与兵衛鮨は大正12年の関東大震災で店を閉めることになるが、
それまで、マグロは一切握らなかった。
それは、マグロは江戸の遠隔地で獲れるので、
江戸に運ばれた頃には鮮度が落ちていたせいだ。
それで、マグロはこのころは下魚とみられていた。
流通が進化した現在とは違った事情があったわけだ。 |