第40回
日本人にはわからない"亡国の民"の哲学
そんな昔の話をしているのではない。
共産党に追われて生命ガラガラ
台湾や香港へ逃げ出した人々を待っていたのは、
亡国の民としての生活であった。
うまく逃げ出せただけでも幸運と言うべきで、
逃げそこなった地主や資本家で、
非業の死をとげた人は数知れない。
台湾や香港に逃げた人々の中には
反共の旗の下で今日まで生きのびた者もあるが、
やがて台湾も危ない、香港も危ないと未来を案じて
さらに亡命先を転々とした人も少なくない。
ある時、香港から東京へ帰る飛行機の中で、
家内のすぐ隣に中国人の年輩の男の人が同席した。
どこに住んでいるか、どういう職業なのか、
と聞かれて家内が、自分は東京に住んでいる、
亭主は物書きで大陸や香港とは無関係な仕事していると答えたら、
「それは大変ラッキーな立場ですね」と祝福された。
語ることなく本人が語ったところによると、
戦後ずっと住んでいた香港での仕事と家をたたんで、
娘のいるニューヨークに移住するところだと言う。
「中国人に生まれるということは本当に情けないことですね。
この五十年に今度が三回目の亡命ですよ。
でも、もうこれが最後だと思っていますが…」
中年から上の中国人は、日中戦争と大東亜戦争のせいで、
たいていの人が奥地まで逃げた経験を持っている。
やっと戦争が終わって上海へ戻ってきたら、
今度は国共紛争になり、あっという間に敗れて
中国共産党の天下になってしまった。
この人は取る物も取りあえず、一家をあげて香港へ逃げたが、
「あの時は、手に持てないものは土地でも家でも
一切合切役に立ちませんでしたね。
私の生家は南京西路に一並びも家を持っておりましたが、
どんなに安く叩き売ろうとしても、
買ってくれる人がいませんでした。
あの時のことですっかり懲りてしまいましたので、
以後、私の父などは香港に住むようになっても
二度と再び不動産を買う気を起こしませんでした。
香港に送金しておいた百万ドルを、
この二十年間ずっと現金のまま、
いつでもどこにでも移せるように、
銀行に預けっ放しにしておきました。
その父が最近死にましてね、
私の兄弟たちで遺産を分けたら、
家一軒買えないこれっぽっちのお金になってしまいました」
「本当にもったいないですね、
不動産を買っておれば、百倍にはなっていたでしょうね」
「でもいいんですよ。
また香港から逃げ出すような目にあわされたら、
それこそ無一文になっていたかもしれませんから」
「今度はアメリカにお住まいですか」
「もう香港には戻って来ないつもりです。
一九九七年を前にして多くの香港人が
どうしようかと迷っているようですが、
私は共産党政府に幻想など抱いていません。
中国人でありながら、政府を信用していないとは、
恥ずかしくて口に出して言えませんが、
もう香港も先は長くありませんからね。
こういう時は三十六計、逃げるにしかずですよ」
「アメリカに行って何をおやりになるつもりですか」
「娘がアメリカ人の大学教授と結婚して孫が二人います。
一緒に住もうと娘夫婦からは言われているんですが、
そう娘に面倒をかけるわけにもいきませんからね。
すぐ近くにアパートの一軒も買ってのんびり暮らすつもりです。
一生に二度も生命拾いをしたのですから、
そろそろおしまいに願いたいですね」
中国のインテリでうまく国外に逃れた者は、
たいていこの人と似たり寄ったりの経験をしている。
自分らの国でないところに行って住むのだから、
ユダヤ人が味わったのとあまり違わない苦悩をなめさせられる。
ならば自国にとどまったほうがましだったかと言うと、
鄭念女史の書いた『上海の長い夜』のような
さんざんな目にあわされるのがオチだったから、
どこに住んでも心境的に「亡命の民」であることに変わらない。 |