第24回
漢字文化の完成度とカナ文化の融通性 その3
日本人は漢字を思想表現の具として受け入れたけれども、
それはヤマト言葉の素地の上に
新しい表現が加わっただけのことであって、
日本語が中国語に置きかえられたわけではない。
だからこそ日本人が自分らの師を中国文化から
西洋文化に乗りかえた途端に、日本語は英語でも、
ドイツ語でも、フランス語でも
ローマ字で表現される言葉を
何の苦もなく取り入れることができた。
たまたまひらがなのあとにカタカナが生まれ、
新しい外来語はカタカナで表現されるようになったので、
日本人はかつて漢字を自分らの新しい
思想表現の具として取り入れたように、
新しい外来語を新しい思想や新しい生活感情を表現する具として、
何の苦もなく取り入れるようになったのである。
もともと音標文字にすぎないカタカナだから、
どんな外国語も、カタカナにあてはめると日本語に変わる。
ただし、日本語にない発音をそのまま発音することは
日本人にむずかしいし、日本語で書き表わすことができない。
Tとか、Lとか、Rとか、Vとかの音は
そのままでは日本語にならないから、
日本語になった途端に本来の外国語とは
似ても似つかぬものに変わる。
それでも日本人の生活の洋化がすすみ、
それを表現するのに古い言葉ではしっくりしないようになると、
カタカナとカタカナを日本語の接続詞でつないだ
新しい日本語が日本人の口からとび出すようになった。
日本語を学ぶ外国人にとってむずかしいのは、
昔からある日本語を学ぶことではない。
ちょっとよそ見をしている間に、
日本語がドンドンと変わっていくことである。
だが、こうした傾向は、今にはじまったことではない。
漢字が入ってきた昔々から、
日本語は外来語を取り入れることによって
新しい言葉に変態してきたのである。
ヤマト言葉がもともとそうした変態を可能にする
構造の言葉だったからである。
漢字そのものは残念ながらそういう具合にできていない。
漢字の一字一字がすでに完成した意味を持っていて、
しかも一つの音で成り立っているから変化の仕様がない。
ポー、プォー、モー、フォーといった音の分解はできるけれども、
それをつなぎあわせてできた文字を分解して
別の意味に変えることはできない。
だから文字の一字一字をつなぎあわせて
意味のある言語にすることはできても、
ローマ字やカタカナのような音標文字ではないから、
ドンドン語尾が変化して似ても似つかぬ
言葉になっていく可能性はほとんどない。
したがってヨーロッパ諸国のように同じローマ字を使いながら、
ドイツ語やフランス語や英語が
お互いに通じない言語に変わっていったのに対して、
北京語と広東語や福建語は発音すると
まるでチンプンカンプンの言語であるのに、
字に書くと皆、
同じ字になっているのは、
象形文字がそれ自体として完成した構造になっていて
容易に破壊できない性質を持っているからであろう。
またそれだからこそ、分裂の歴史に度々見舞われながら、
漢字が中国全体を統一へ戻すきずなの
役割をはたしてきたと見ることもできる。
|