第22回
漢字文化の完成度とカナ文化の融通性
日本人は自分らが師と仰ぐに足る実力を備えた国
もしくは人に対しては、
「三尺離れて師の影を踏まず」といった敬虔な態度をとる。
反対に自分らよりランクが下とわかったら、
掌をかえしたように横柄な態度に出る。
最近は、国際会議などで一緒になるチャンスがふえたので、
さすがに顔に出すことは避けるようになったが、
顔に出さなくとも、胸に手をあてて考えてみれば、
そうであるかどうか、一番知っているのは自分たちである。
その代わり自分らよりすぐれていることがわかったら、
どこの国の人だろうと、人種をこえて、尊敬の念を表わす。
王貞治さんは名前からして中国人だが、
あれだけ打者として実力があり、
ブラウン管を通じて多くの人々を娯しませてくれれば、
日本政府も国民栄誉賞をくれるにやぶさかではない。
日本人でなくとも、日本人より偉ければ、
日本の選良として受け入れられるのである。
ついでに申せば、私は日本籍に移ってからも、
中国名前をそのまま通しているが、日本籍になる前も、
日本籍になってからも、日本に住んでただの一度も、
人種的なことで不愉快な思いをさせられたことはない。
それは私が若い時から物書きとして名を知られ、
それ相応の社会的評価と待遇を受けていたことと関係がある。
しかし、王貞治さんや私のような少数の例外を除けば、
多くの中国人は(韓国や北朝鮮の人たちも含めて)
必ずしも面白い目にばかりあっているわけではない。
日本人の閉鎖性、排他性は、日本人から最も尊敬されている
アメリカ人でさえそれを感じているくらいだから、
日本人から見下されてきた
朝鮮半島や台湾や東南アジアの発展途上国の人々で、
不愉快な体験をしたことのない人はまずいない。
ちょうど会社の中で、
上役にぺこぺこする部長や課長ほど下役にあたり散らすが、
あれに似ていると思えば当たらずといえども遠からずだろう。
そういう態度が、外国人に接する場合や
外国の文物を取り入れる時につい頭をもたげてくるのである。
中国人にはそういうところがない。
それは中国人が頭が低いからではない。
むしろ自分らこそ世界の文明文化の中心に位置しているという
中華思想が頭にこびりついていて、
人に学ぶという謙虚さに欠けているからである。
この尊大さは何千年の歴史の間に
自然にはぐくまれてきたものだけに、
清朝が滅んで中国が植民地争奪戦の対象に
されるようになってからでも少しも変わりはない。
たとえば、西太后が諸列強の連合軍に敗れて以来、
中国人はさんざんな目にあわされたが、
大砲や軍艦を持って攻め込んでくる外国人を
昔ながらの東夷西戎の野蛮人としてしか認めようとしなかった。
塞外から攻め込んでくる蛮族にくりかえし統治を受けながらも、
それをことごとく同化して行った歴史があるだけに、
いかに武力的に強力であっても自分らよりすぐれた
文化の持ち主であるとは認めようとしなかったのである。
私がこのことに気づいたのは、
一九四八年、台湾から香港に亡命して、
しばらく香港に住んでいた時のことだった。
香港はイギリスの統治下にあり、
そこに住む中国人は、
イギリス人のおかげで中国の内戦から守られ、
物資的にも豊かな生活を享受している。
もちろん、統治者であるイギリス人のほうが立派な洋館に住み、
水洗便所のおかげで臭い思いもしないですんでいる。
中国人で金持ちになった人々も、
イギリス人のそうした生活がすぐれていることを認め、
自分らもそうした洋館に住んで西洋文明を享受している。
にもかかわらず中国人は
(香港の場合はほとんどが広東人であるが)
西洋人を鬼と呼び・女は鬼婆と呼んでいる。
イギリス人は英国鬼、アメリカ人は美国鬼、
そして、フランス人は法国鬼と呼んではばからない。
こうなると、鬼と鬼ババアというよりは、
「外人さん」の呼称と考えたほうがいい。
それを「鬼」という言葉で表現するのだから、
西洋人崇拝熱の高い日本や日本の影響を強烈に受けている
台湾からやってきた私には、意外でもあり驚きでもあった。
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