中国人と日本人 邱永漢

「違いの分かる人」へのヒントがあります

第1回
まえがき

私は日本と中国の接点とも言うべき台湾で生まれた。
私の父は幼い時に福建省から台湾へ移住してきた中国人で、
私の母は九州の久留米市生まれの日本人である。
父と母がどんなめぐり合わせで一緒になったのかは、
私がまだ生まれる前の出来事だから詳しいことはわからないが、
二人の間に五男六女があり、私はその長男として生まれた。
しかし、私が生まれた当時、本島人と内地人
(当時、台湾人と日本人を区別してそう呼ばれていた)は戸籍上、
結婚することができなかったので、
私は父と戸籍上の妻との間の子供として市役所に届けられ、
邱の姓を名乗り、台湾人として育てられた。

私の次の妹以下は差別されることをおそれて
母親が自分の久留米の籍に入れたので
母親の私生児として育てられた。
父親も母親もはっきりしており、
同じ屋根の下で育てられているというのに、
たったそれだけのことで私たち兄弟の運命は大きく分かれた。

まず台湾人として生まれたために、
私は台湾人としての辛酸をすべてなめさせられた。
上級学校に進学する時も、差別入試を突破するために
最高点をとらなければ入学できなかった。
戦時中の東大では重慶のスパイ容疑で憲兵隊に留置されたし、
「満州国経済について述べよ」という試験の答案で
日本の帝国主義に言及したところ
あやうく退学処分にされそうになった。

それでいて終戦後の台湾へ帰ると、
日本帝国主義的教育の害毒を受けた者として
国民党政府から排撃の対象にされた。
ついには台湾に住んでおられなくなり、
官憲の追求を逃がれるために、
やむを得ず香港へ亡命した。

香港で潘家の娘と結婚して二男一女をもうけた。
妻の実家は広東省開平の出だから、
私が中国人2分の1、日本人2分1であるのに対して
うちの子供たちは中国人4分の3 、
日本人4分の1の血を受けついでいる。
ならば子供たちの方が中国人に近く、
私の方が日本人に近いかと言うと、
私は台湾人として日本教育を受けるかたわら、
漢文の先生について古典の勉強もさせられたし、
福建語(台湾語)は日本語と同じくらい完壁に話せるし、
広東語も北京語も日常会話には困らない。
中国人の発想や風俗習慣も、
日本人のそれと同じくらい心得ているつもりである。
それに比べると、うちの子供たちは日本で育ったせいもあって
日本語しかできないし、立居振舞い、
ものの考え方など生活の万般にわたって日本人そのものである。

つまり日本人であるか、それとも中国人であるは
血統によって決定されるものというより、
置かれた環境によって決まると断言してまず間違いない。
テレビに出てくる日本人の戦争孤児たちがいかに
中国人そのものであるかを見ても、
日本人と中国人が同位元素のような存在であることがわかる。
ただし、置かれた環境が違うというだけのことで、
日本人と中国人がいかに異質の存在であるか、
また不幸な過去を通じて、
日本人と中国人がお互いにいかに相手を知らないか、
改めて痛感させられる今日この頃である。

東欧共産圏の崩壊やソ連邦の解体と共に、
中国大陸にも大きな嵐が襲来した。
あッという間に管理経済から市場経済に変わり、
「次はアジアの時代」を予見させる経済成長がすすんでいる。
中国大陸の経済発展に今後、
日本がどのていど手を貸すようになるかはまだ未知数だが、
日本が積極的に手を貸しても、あるいは全く貸さなくても、
中国経済が大きく発展することは間違いない。
しかし、日本が手を貸せば、
中国経済の発展に加速度がつくだろうことは確かだし、
それによって日本と中国の間に
新しい時代がはじまることも期して待つところがある。
端的に言えば、日本人が大陸へ行って
商売をするチャンスがこれからいよいよふえる。
そうした提携や合弁がスムーズに運ぶためには
日本人がもっと中国人を理解し、
中国人がもっと日本人を理解する必要がある。

その懸け橋になるような相互理解のための本を書く必要を感じ、
中央公論社社長の嶋中鵬二さんに相談したところ、
一も二もなく賛成していただいて、
『中央公論」本誌の九二年十一月号、九三年一月号、三月号と
三回にわたって一回百枚の短期連載をやらせていただいた。
本当は書き下ろしが望ましかったのだが、
連載だと費任を感じて必ず期日までに仕上げることになるので、
日本、台湾、香港、北京、上海、成都と原稿を持ち歩きながら
夜を日についで何とか書きあげることができた。
どんな出来栄えのものになったかについては
読者の皆さんのご判断を仰ぐよりないが、
この手の本はいままでにもたくさん出ている。
そのどれを手にとって見ても、
どちらか一方をよく知っておれば
もう一方をそれほど知らないという憾みがある。
その点、私は双方のふところの中で育ったせいもあって、
自分の全智全能を傾けてこのテーマと取り組んだ。

本来の目的から言っても、日本人に中国人を
理解してもらうだけでなく、
中国人に日本人を理解してもらう必要を感じて
筆をとったものであるから、
この日本版だけでなく、
近く台湾版と大陸版を出版する予定になっている。
大陸十二億の中国人にとっても
本書が日本人を知るよすがになれば、
私にとってこんなじあわせなことはない。
最後になったが、この本がこういう体裁で世に出るにあたっては、
嶋中鵬二さんをはじめ、『中央公論」編集長宮一穂さん、
文化部部長岡田雄次さん、同次長江刺実さん、
それから書籍第二部部長の平林敏男さんのお世話になった。
ここに改めて感謝の意を表したい。


一九九三年二月吉日


邱永漢
目黒区青葉台の自宅にて





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2012年8月6日(月)

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