香港に住む気を失った私は香港から出て行くプランを三つほどたてた。一つはセレベス島に渡ってコーヒー園を経営することであった。もう一つはボルネオ島に渡って近海でとれる高瀬貝を集め、貝ボタンの原料として日本に輸出する仕事だった。そして、最後は、海の物とも山の物ともわからない冒険はいっさいやめて、勝手知った日本に舞い戻って、何かやれそうな仕事をはじめることだった。あれこれ迷った末に一番最後の道を選んだが、まさか筆で身過ぎ世過ぎをする身になるとはその時は想像だにしていなかった。
小包屋が駄目になったので、私は東京で何かやれる仕事はないかと東京の姉に相談した。義兄がウエルター級のチャンピオンであった頃、ハワイやロスに住んだことがあったので、ハワイの二世たちに親友が多かった。その連中が戦後の日本にしょっちゅう遊びに来ていて、進駐軍にも出入りしていたので、相模原市の附近で進駐軍向けの冷暖房水洗の完備した住宅を建てたらどうかとアドバイスしてくれた。私はぜひそれをやりたい、そのために一千万円くらいの資金は用意するからと言って、土地探しを姉に頼んだ。間もなく一万坪の土地が見つかった。一坪三百円で全部で三百万円だが、どうだろうかと言われたので、私はすぐに買ってくれるように折り返し返事をした。しかし、話はそれっきりで途絶えてしまった。私の母方の叔父がどこかからチューインガムの工場を買う話を持ち込んできて、兄夫婦がそれにとびついてしまったからである。
その少し前から香港の人も商用のために日本に行くことができるようになっていた。私はパスポートを持っていなかったが、香港政府はパスポートを持たない人のためのアフィダビットという身分証明書を発行してくれた。それを旅券代わりに使うと飛行機ででも、汽船ででも日本へ行くことができるようになった。
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