同志は去り、一人香港に留まる

とにかく、富裕な家に育ったおかげで家内の舌はよく訓練されていた。またそのおかげで我が家の食卓はたちまち賑やかになった。ただし私たちが結婚した時期を境として、我が家の家業はだんだん思わしくなくなっていた。さきにも述べたように、私の小包屋商売が順調な様子をみるとたちまちライバルが現われたし、廖家の中にも、また廖家から出て行った亡命青年たちの中にも、小包を両手に提げて郵便局に出かけて行く姿が見られるようになった。その上、ペニシリンやストマイの密輸も大々的に行われるようになったとみえて、一番いい時は十倍にも売れた商品が元値すれすれまで値下がりしてしまった。かつて私に大富豪になれるかもしれないという夢を見させてくれた鉱脈は明らかに底が見えてきたのである。
そうしたある日、簡世強君が私のところへきて、
「廖博士が香港の家を畳んで日本へ行くことになった」
と私に告げた。
「へーえ。どういうルートで行くんですか。廖先生のことだからまさかヤミ船というわけにはいかないでしょう?」
と私がききかえすと、
「日本へ入国するためのビザは何とかもらったようだ」
「で、家族の人たちは?」
「家族まで馴れない日本に連れて行っても仕方がないから、アメリカに戻るらしい。そろそろ子供たちの将来の学校のことも考えなければならない時期にきているんだよ」
「そうだなあ、廖先生としてもそうするよりほかないだろうなあ」
と頷きながらも、私は胸にずしりとくるものがあった。

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