廖さんは私に自分の代わりに話をきいてきてくれ、と言うから、私が指定されたホテルに丘念台さんを訪ねて行った。丘念台さんとは、台北にいた時に一回、お会いしたことがあった。私立延平学院を設立するための口ききをお願いに上がった時のことである。薄くなった髪の毛をきれいに剃り上げた丸坊主の容貌が出家のようにみえて、年の頃はすでに五十歳をこえていただろうか。人にきいたところによると、私生活もつつましく、なかなかの人格者であるという評判だった。まだ二十五歳になったばかりの当時の私にとっては、社会的地位もずっと上で、近寄りがたい存在であった。
その丘念台さんが私の顔を見るなり、手をさしのべてきて、「これからは君たちの時代だよ。頑張ってください」と言ったから、私はあっけにとられてしまった。
自分の父親くらいの年の人に鄭重この上ない扱いを受けたのもびっくりなら、世の中こんなところまで本当にきてしまったのだろうか、台湾の第一級の政客までそう考えるようになったのだろうか、と改めて時世の移り変わりにびっくりしたのである。
確かに、あの時点でアメリカが蒋介石の台湾入りを拒否していたら、国民政府はそのままこの世から消えてしまったに違いない。そういう動きになってきたことを丘念台さんは敏感に嗅ぎつけていたから、わざわざ香港までとんできたのであろう。廖文毅の天下になることを見越して、その時にはよろしく、といった意味の動きだったように思う。その変わり身の早さにも一驚したが、政治家は本能的に風見鶏であることを改めて痛感させられたことであった。
丘念台さんには台湾独立派と誼(よし)みを通じておこうという気持もあっただろうが、どの程度、アメリカから働きかけがあるのか、探りたいという目的もあった。だからそれとなくいろいろと質問の矛先を向けてきたが、私も負けずに思わせぶりな応答をした。しかし、すべてはアメリカが蒋介石の台湾入りを阻止するという仮定の上に立っての話だから、どちらにとっても雲をつかむような話であった。大した成果があったわけではないが、約一時間あまりの会談を終えて外へ出た私は、急に自分が大人物になったような興奮につつまれた。私は廖さんの片腕ということになっており、対外的には秘書長、すなわちセクレタリー・ゼネラルといういかめしい肩書がついていた。もし廖文毅博士が蒋介石に代わって台湾入りをすることになれば、私はナンバー・ツーになるわけだから、ちょっと肩で風を切りたい気持になったとしても、別に不思議ではない。
しかし、長い亡命生活の中で絶頂期があったとすれば、せいぜいこの時くらいなものであった。
行き先もなく、お金もなかったからずっとお先真っ暗な日々が続いた。せめてもの救いは待ちに待った蔡海童さんが、私の期待を裏切らずに、半年ぶりに日本から戻ってきたことである。
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