はじめて稼いだ百ドルの感激

来る日も来る日も心細い日が続いた。一人で香港のような異郷におっぽり出されてみると、いままでやってきたことはほとんど何の役にも立たず、改めて自分の非力を痛感せざるを得なかった。まずお金がなかった。お金がなくても、助けてくれる身内や友人があれば、なんとか暮らしていけるのだが、それも皆無となると、あとは労働力を提供して生活の糧を手に入れるよりほかなかった。ところが、難民の溢れた当時の香港で職にありつくのは容易なことではなかった。私には広東語がわからなかったし、なまじちゃんとした学歴があったので、荷物運びをやったり、レストランで働くには、それが邪魔になった。
のちに東京へ戻って「香港」という小説を書いて直木賞を受賞し、少々有名になった頃、もと勉強をした東大経済学部のOBの集まりである「経友会」で講演を頼まれたことがあった。私にはまだそれだけの資格がないからと、いったんは断わったが、次の年もまた同じことを頼まれたので、「生意気な奴だと思われても困るなあ」と思って、のこのこ出かけて行った。すると、昔、私に経済学の難しい理論を教えてくれた先生方が下のほうに並び、私が演壇の上から講釈をする羽目になってしまった。私は自分が大学を卒業して故郷の台湾へ帰り、「日本の帝国主義的教育の害毒を身につけて帰ってきた」と大陛からやってきた連中に非難されたことや、二・二八事件で先輩たちが多く虐殺されたことに悲憤を感じて香港に亡命したことを手短に喋り、
「香港に逃げることによってどうやら一命は取り止めたものの、香港で流浪の日々を送るようになってとても困ったことがあります。それはこんな立派な大学で、難しい経済学の理論をいろいろ教わったけれども、お金儲けの仕方を教わらなかったことです」
と言ったら、先生方の間から爆笑が巻き起こった。私としては本当のことを言ったつもりだったが、あるいは事の本質を突いていたのかも知れない。
いずれにしても東大を出たことは、香港のような、金、金、金の町ではまったく何の足しにもならなかった。だから私は自分の生まれとか、自分の学歴とは何の関係もない、といって香港の人たちと同じことをやっていてはメシにもありつけないことがわかっていたから、まったく別の道を切りひらくのでない限り、この競争の激しい商業都市で生き残ることはできないとつくづく思った。

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