続々と香港に流れこむ大陸からの難民

それはさておき、廖博士が荘さんのヤミ船の渡航代に支払ったお金はすべて廖博士が自腹を切った。廖さんにどうしてそんなお金があったかというと、廖さんには向う見ずの子分がいて、香港と日本の密輸に従事していたからである。密輸といっても、当時、日本では手に入らなかったサッカリンやストレプトマイシンやペニシリンを日本に持って行って、帰りは米ドルに換えてもって帰ってくるだけの片道貿易であった。いい時は十倍にもなったというから、資金を出してあげた廖博士にもしかるべき分け前があったのであろう。
しかし、資金づくりまで自分らでやらなければならない革命運動は容易なことでないし、そう長続きのするものではない。現に私が廖家にころがり込むかなり以前に、サッカリンやペニシリンを積んだ船はすでに日本に着いたけれど、貨物について行った廖さんの子分はそれっきり香港へ帰って来なかった。陸揚げした荷物を預けておいたところ、そこの人に横領されてしまったとか、いや、子分のほうが使いこんでそれを他人のせいにしているとか、風の便りにいろんな噂が耳に入った。いずれも私の関知しないことだし、利害関係のないことだったが、お金の入る道が閉ざされれば、廖さんの台湾再解放同盟が政治資金に事欠くことははっきりしていた。
そうした手元不如意といったことはあったけれども、香港に集まったわれわれ反政府分子の意気は盛んであった。というのも、日本軍が敗戦によって武装解除されて以来、中国大陛の国共紛争が表面化し、一九四八年十月になると、中共軍が瀋陽を占領し、国府軍が旧満州から全面撤退しただけでなく、南京の守備もあやしくなると広州への遷都を宣言したからである。さらに十一月十五日には中共軍が北京に無血入城した。こうなると、雪崩を打って国府軍は総崩れになり、年明けには蒋介石が引退を声明し、李崇仁が代総統になった。しかし、もはや頽勢を挽回できるわけもなく、南京も武漢も上海も青島も次々と中共の占領するところとなった。どうしてそんな将棋倒しのようなことが起こるかというと、中共軍の攻勢に対抗すると生命懸けで応戦しなけばならなかったが、城を明け渡して逃げるとなれば、役所の書類を焼いて悪事の数々の証拠湮滅をやった上に公金を持ち逃げすることができたからである。国府軍の敗走は人民解放軍が優勢だったせいと言うよりも、国民党の腐敗によるものと見たほうが正しいであろう。
大陸で戦乱が起こると、その余波は必ず香港まで及ぶ。私たちは国民政府が中共に追い落とされると、アメリカはアジア防衛の必要から、台湾にその累が及ぶことをおそれて、国府の台湾入りを拒否するだろうという思惑を持っていた。当時、まだ平和条約も正式に結ばれておらず、国府の派遣した行政長官公署が台湾を管理していたが、台湾は正式の中国の領土ではなく、いわば委任統治地にすぎなかった。そういうことを理由に、アメリカが台湾海峡に艦隊を配置して一線を画してくれたら、その時は台湾人にチャンスがくる。そう考えて生命知らずにも、国民政府に叛旗をひるがえし、香港に亡命したのだが、国府軍が敗戦につぐ敗戦で、撤退をはじめると、今度は北京、上海をはじめ、すぐ隣接する広東省からも続々と難民が香港に流れ込んできた。

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