こうなったら早く逃げ出さないと
そうしたある日、いつものように研究室に行って、机の上に置いてあった新聞を何気なくひらくと、国連からAP、UP電で台湾の人たちが独立運動をやっている記事が報道されているのが、いきなり目の中にとびこんできた。それに対する台湾省参議会議長黄朝琴氏の反論が一頁分のスペースでデカデカと掲載されていた。台湾人を混血民族であると主張するとは何事だ。台湾人は中国人であり、すべての中国人は黄帝の子孫だと私に反論していた。私は、蒋介石が大陸から逃げ出す時だって兵士の大半は家族は連れてきていない、輸送手段がこれだけ発達した時代でもそうなのだから、鄭成功が台湾落ちをした時代は兵士たちが男だけだったことは疑いの余地がない、それが三百年の間に七百五十万人にふえたとすれば、現地の高山族の女と混血したと見るべきで、台湾人は大陸の中国人とかなり違うはずだと主張したのである。
自分がやったこととはいいながら、その反響の大きさに驚いて、私はあやうく新聞を取りおとすところであった。もし首謀者が誰かわかったら、それこそ生命がいくつあっても足りない。私はすぐ荘要伝さんに連絡をとった。「こうなったら一日も早く台湾から逃げ出さないと危ない、早く準備をするように」と荘さんからも忠告があった。準備をするといっても、妻や子があるわけではない。これといった財産があるわけでもない。いくらかそれらしいものがあるとすれば、当時、自分らの住んでいた住宅に権利金が発生するようになっていたくらいのことであった。
私はブローカーを走らせて、やっと権利金を払ってくれる人を見つけてもらった。引越し荷物を片づけていたら、荘さんが現われて、
「いよいよ危なくなってきたよ。どうも香港では自分らが安全なところにいるものだから、つい□が軽くて、台湾から訪ねて行った人に、台湾から銀行員がやってきて書いたと喋ったらしいんだ。こうなったら僕も危ない。僕も一緒に逃げるから、すまんが家内のために百万元ほど用意してくれないか。当日は、銀行のお客に招待されているからと言って、ネクタイをつけて銀行に出勤するつもりだが、百万元は銀行小切手にしておいてくれ。引き出しの奥にしまって、あとでわかるようにしておくから」
私自身、親たちの生活のことも考えなければならない立場だというのに、荘さんは自分の家族の分まで私にせびった。仕方がないから、家を売った権利金の中から荘さんに百万元、残金の中から半分を母親に渡したら、ポケットに千ドルのお金が残っただけだった。母親にだけは本当のことを打ち明けたほうがいいと思ったので、いよいよ出発する前の晩に、「国民政府を追っ払うためにこれから香港に行く」と手短に言った。すると、母は少しもたじろがずに、
「それをやることには、私も賛成です。でも、政治家の人たちにうまく利用されないように気をつけてちょうだい」
母も、よほど腹に据えかねていたと見える。自分の息子が目の前からいなくなってしまうことに関しても、ひょっとしたらもう二度と会えなくなるかもしれないことについても、いっさい愚痴らしい愚痴はこぼさなかった。私は自分の生みの親より育ての親のほうに愛情を感じていたが、改めて自分の母親の偉さに心を打たれた。
あとはいつ台湾から逃げ出すか、だけになった。二人で一緒に逃げるといっても、同じ飛行機に乗って二人ともども取りおさえられたら馬鹿らしいと思ったので、ちょうど一時間違いで台北から香港にとぶ別々の便に予約をした。
「二人とも無事だったら、ペニンシュラ・ホテルの玄関で会おう。三時間後にそこで待っていろよ」
電話で最後の連絡をしてから、私は先に松山飛行場に向かった。もうこれで台湾は見おさめだといった感傷はなかった。そうした心の余裕もなかったが、必ずまた戻ってくるという気概に燃えていたからである。
三時間後に、私と荘要伝さんは約束どおりペニンシュラ・ホテルの正面玄関前で顔を合わせ、お互いの無事を祝福しあった。それはこれからの長く続く、険しい道のはじまりであって、終わりではなかった。 |