もうこれ以上、一緒にはやって行けない

陳儀将軍は、形勢が悪かった間、処理委員会が提出した市県長公選、専売局長の更迭などの要求を全面的に受け入れた。しかし、交渉をダラダラと引きのばしている間に、蒋介石に援軍の密電を打ち続けた。日本軍の受降典礼を受けるために来た裸足で天秤棒を担いだ田舎の兵隊と違って、今度はアメリカ式の新装備を身につけた精鋭部隊が基隆に上陸した。上陸部隊は抵抗する民衆に容赦なく機銃掃射を浴びせ、基隆港は銃殺された台湾人の死体で埋まった。国民党の軍隊は破竹の勢いで台北に進み、二・二八事件処理委員会のメンバーたちはいつの間にか、共産党の赤帽をかぶせられ、逃げ遅れた者や、自分は悪いことをしていないと信じて出頭した者はそのまま不帰の客となってしまった。
この事件で死んだ台湾人の数は五千人にも、あるいは一万人にものぼると言われている。私は国民党軍が掃蕩戦を展開している間、高校時代の先輩でもあり、かつ文学の仲間でもあった台北一高女の新垣宏一さんの家の書棚と書棚の間で流れ弾を警戒しながら、「大変なことになったなあ」と長い夜を語り明かした。
とうとうこれで大陸の中国人、つまり戦後になって渡ってきた外省人と、昔から台湾に住んでいる本省人との間に、永遠に埋めきれない溝ができてしまったようなものだった。日本が台湾を統治した五十年の間に、東大を卒業した台湾人は約百人ほどいたが、この事件で三人が殺された。
一人は台湾大学の文学院長の林茂生氏。この人は事件の収拾のために尽力しただけで、政治的色彩も政治的野心もまったくない人だった。もう一人は王育霖(いくりん)といって新竹地方法院の検察官をやっていたが、新竹市長がアメリカの援助物資である粉ミルクを横流ししている証拠をつかんで検挙したところ、逆に法院の上司に解職されてしまった。やむを得ず台北に出て建国中学の教師をやっていたところ、事件が起こると、新竹から糾察隊が押しかけてきて連行され、そのまま行方不明になってしまった。あとの一人は阮(げん)朝日といって屏東(へいとう)市で市長をやっていたが、これまた連行されて二度と姿を見せなかった。
死体の見つかった人はまだ好運なほうだった。かなりの死体が鎖や針金で縛られ、淡水河に投げ捨てられていた。事件が終わってみると、殺された有名人のほとんどは、事件と直接、関係のない人たちばかりだった。以来、私は自分は無事だという考え方は中国人杜会に通用しないことを肝に銘ずるようになった。またどさくさにまぎれて仇を討つ習性があることも考慮に入れて行動しなければたいへんな目にあわされるぞ、と自分に言いきかせるようになった。
それにしても、なんたる惨状であろうか。日本の植民地統治から解放されて、やっと祖国のふところに戻ったと思ったら、銃口を向けられて「言うことをきかないと撃つぞ」と機銃掃討の対象にされるとは、いったい、なんとしたことだろうか。一年前に勇躍して帰ってきた時には想像もしていないことばかりだった。甘ったれと言われれば、返す言葉はないが、事ここに至れば、もはや決断をするよりほかない。
「もうこれ以上、一緒にはやって行けないんだ」というのが台湾の人たちに共通の心理であった。
大陸では国民党と共産党の内戦が各地で展開されており、腐敗した国民党の旗色は悪くなるばかりであった。またそれだからこそ、蒋介石は将来の逃げ道も考えて台湾人の徹底的弾圧を厳命したのであった。私にしてみれば、そうした大陸内の抗争の外に自分らを置く方法はないものかと、ない智恵をしぼった。そのためには、台湾を国民党の支配から切り離す方向にもっていく以外に方法はないと確信するに至った。
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