戦勝国民の仲間に組み入れられて
しかし、戦争はもう終わっていた。東京に戻ってもB29に爆弾を落とされる心配はなくなっていた。これ以上田舎に避難している意味がなくなったので、私は松本家の人たちに暇乞いをして東京へ戻ることにした。さんざん食べ物のことで厄介をかけた内藤家にも挨拶に行った。内藤家には年頃の澄ちゃんという、農家には珍しい上品で清潔な感じの娘さんがいた。瀬戸の役場に勤めているとかで、よく自転車に乗っている姿を見かけたが、私が顔を出すと、とても親切にしてくれた。私のことを憎からず思ってくれていることは、その態度でもすぐわかった。しかし、あの時代の雰囲気では、どちらから言い寄ることもできなかった。女の子が胸のうちを打ち明けられる時代ではなかったし、私は私で将来どうなるのか、自分でもまったく計画が立っていなかった。だから、にっこり笑いかける以上のことは何もできないでいた。
最後の日に別れの挨拶に行った時、澄ちゃんはちょうど井戸端に立ってつるべで水をくみあげているところであった。私が長い間お世話になりましたと言うと、
「とうとうおくにに帰られる時が来たんですね。おくにに帰られたら、偉い人になるんでしょうね」
と淋しそうな笑いを浮かべた。
「なんなら一緒に連れて行ってあげようか」
と、私はからかい半分に言った。半分くらいは本音もこめていた。みるみる澄ちゃんの顔がパッと赤くなった。
「いいえ、私なんか、田舎者ですもの」
やっとそれだけ答えるのが精一杯だった。そして、それが最後になった。東京へ戻った私はすぐ北山先生のところへ挨拶に行った。先生は私の話を聞きながら、
「君もすっかり田舎者になってしまったなあ。言葉遣いまで岡山弁じゃないか」
自分でもまったく気がつかなかったが、たった半年で人間は環境に順応してしまうものなのである。
とりあえずアパート探しからはじめなければならなかった。東京中が焼野が原になってしまって、そこへ疎開先から人が次々と戻ってくるので、どこもここも住宅不足で空室を見つけるのは容易でなかった。焼跡に古い木材やブリキ板をかき集めてきてバラック住まいをする人もふえていた。そんな中で、私がすぐに自分のアパートを見つけられたのは、意外なことに、自分の気がつかないあいだに、台湾人や朝鮮人が戦勝国民の仲間に組み入れられていたからであった。
世田谷区の等々力というところに、大東亜学生寮という戦争中に建てられた留学生寮があった。大東亜共栄圏をスローガンにしてきた東条英機首相の頃に日本に留学に来るアジア各地の学生のために建てられたもので、いってみれば、いいカッコをしてみせるためのものであった。当時の等々力にはほとんど住宅などなかったが、ここばかりは建材の不足した戦争中にもかかわらず、畑の中にぽつんとよく目立つ新しい建物が建っていた。台湾人は日本人ということになっていたから、入寮する資格がなく、ほとんどが汪精衛政権の頃に上海あたりからかき集められてきた占領下の中国人留学生によって占領されていた。
それが日本の敗戦によって台湾人も中国人ということになり、大東亜学生寮に入寮できることになった。「あすこに行ったら部屋が空いているよ、行ってみな」と大学の先輩から聞かされた私はすぐに訪ねて行った。今川さんと呼ばれる、とても物分かりのよい姉妹の寮母さんが一切をとりしきっていて、私が東大の学生であることを知ると、すぐに部屋をひとつ空けてくれた。あの戦後の住宅事情の下では、まさに地獄に仏であり、営利目的でなかったから部屋代もうんと安かった。私は大学の研究室に行って書棚の中に押し込んであった自分の荷物を少しずつ寮まで運び、以前には想像もできなかったような立派な環境で学生生活を送れるようになった。もう以前のように特高に乗り込まれることもなかったし、魯迅全集とか、マルクスの『資本論』とか、蒋介石の『中国的命運』を堂々と本棚に並べることができるようになっていた。
ある日、そこへ松本君が訪ねてきた。松本君は九月の卒業を前にして、都市銀行の一つに就職がきまっていた。
「このあいだ、岡山へ帰ってきたんだけどね」と松本君は言った。「田舎の連中はみな、君はスパイじゃないかと言っていたぞ」
「どうしてなんだ。どこがスパイなんだ」
「だって君は日本は戦争に負けると言っていただろう。玉音放送があった日でも、家中の者が励ましのお言葉でしょうと言ったら、君だけが戦争が終わるんだと自信ありげに言っていたじゃないか。そんなことが事前にわかる人はスパイに違いないと、村ではもっぱらの噂だよ」
「まさか!」と私は思わず叫んだ。「僕がスパイでないことは、六ヵ月間、毎日、起居を共にした君が一番よく知っているはずだ。あやしげな手紙が来たことだって一度もないし、無線の発信機なんか持っていたことがあるか。多少の情報と公平な判断力さえあれば、世の中がどうなるかくらいのことは見当がつくものだよ」
もう戦争が終わっていたからよかったようなものだが、もしもっと戦争が長びいていたら、私は岡山県の田舎でも再び憲兵隊や特高にとっつかまっていたかもしれない。いくら証拠がないと言い張っても、政府に不都合な情報は流言蜚語としてきびしい処罰の対象にされて当たり前の時代だったからである。
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