誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第16回
自分のことは棚に上げ……

荷風散人は『断腸亭日乗』にこんなことを綴っている。
《予は平生文壇の士を目して人間の屑なりとなせり、
 予自身のことはこゝには棚に上げて言はず、
 世の文学者といふものは……(中略)……
 礼儀を知らず、風流を解せず、薄志弱行、粗放驕慢、
 まことに人間中の最劣等なるものなり》と。
俗に「文人相軽ンズ」というが、
ここまで同業者をこき下ろせば、いっそ清々しいくらいだ。

荷風に限らず、相手の非を咎めたり、
あるいは逆に名論至論を述べようとするときには、
まず自分のことは棚に上げなくてはならない。
およそ耳目をそばだたせる意見というものは、
自分を棚に上げたところから発せられるもの、
と心得るべきだろう。

荷風といえば、
美しい日本語を駆使した最後の文士として知られている。
ドナルド・キーンは機中、文庫本で『すみだ川』を読み、
《その美しさに心を奪われ、涙が出てきた》と
『日本の作家たち』の中に記している。
しかし、その美しい文章を書く荷風を
千葉市川の僑居に訪ねると、
着物をだらしなく着て、
前歯のかけた醜い顔がヌウッと出てきた。
荷風は美しい日本語を操ったが、
その性行は決して美しくはなかった。
《荷風はウソつきでケチで助平でつめたくて、
 自分のことを棚にあげ舌鋒するどく他人を難じ……》
と山本夏彦も書いている。
そう言いつつも夏彦翁は、美しい荷風の文体を愛し、
しばしば恍惚とした、という。

西田幾太郎の後継者と目され、
戦中・戦後の大ベストセラー『人生論ノート』で知られる
哲学者の三木清は、
あふれる才能に浴しながらも、並外れて嫉妬深く狭小な性格で、
人格的にも醜悪であったという。
また《まだあげ初めし前髪の……》
と美しい抒情詩や小説を残した藤村は、
姪と関係して子を孕ませるほどの好色漢であったが、
世間は聖人君子のごとく彼を遇した。

美しく陶然とさせる言葉は、
しばしば人格低劣な人間の口から紡ぎ出される。
作者の人格と作品とは自ずと峻別すべし、
というのはそのことを言っている。
したがって、凡夫匹夫が自分のことを棚に上げ
名論卓説を述べようが高邁な道徳論をぶち上げようが
些かも遠慮は要らない。
ただし、相手がそのご高説に真摯に耳を傾けてくれるかどうかは、
また別の話ではあるが……。


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