とはいえ、商業雑誌ではないから、『あまカラ』に原稿を書いても原稿料はもらえない。原稿料の代わりに、鶴屋八幡のお菓子か、『あまカラ』に広告を出している昆布屋や味噌屋の製品が送られてくる。それはそれでご愛嬌なのだが、私のように五、六回分書くつもりだったのが、「食は広州に在り」「象牙の箸」「食前食後(漢方の話)」と延々九十回、足かけ十年の連載になると、毎月毎月、鶴屋八幡の羊羹が届く。いかに甘党でも、いかに鶴屋の羊羹が美味の結晶であっても、しまいには「羊羹こわい」という気持になってしまう。おかげで『あまカラ』が廃刊になったあとも十年間くらいはその後遺症がつづき、鶴屋八幡のお菓子をもらっても手をつける気がおこらなかった。
水野さんの方でも気をつかって、毎月、甘い物ではうんざりするでしょう、何かほかの物を、といって菊正宗の蔵出しをはじめ、小倉屋のえびすめから米屋の味噌に至るまで関西のありとあらゆる名物を送ってくれた。岡山市の内山下にある初平という果物屋の白桃や葡萄を知ったのも、『あまカラ』からのプレゼントが機縁で、職人気質の初平さんは私が喜ぶのを見て、自分で丹精した韮黄まで速達便で届けてくれるようになった。韮黄とはニラを陽にあてずに黄色く柔らかいまま大きくしたもので、「ニラのモヤシ」とでもいったらいいだろうか、日本人は滅多に食べないが、中国人はこれを珍重し、海老と炒めたり、牛肉の繊切りと炒めたりする。初平さんが亡くなってからは、しばらく供給が途絶えていたが、台湾へ帰るようになってから、毎月のように台北の市場で野菜の買い出しをするようになったので、我が家の食卓でも最近はよくお目にかかるようになっている。
また私が関西へ行くと、水野さんと今中さんが出てきて必ずのように、大阪と京都の一流の料亭に私や妻を案内して盛大にご馳走をしてくれた。原稿料は払えないけれど、大阪へ来たときくらいはご馳走しなくっちゃ、という考えらしく、吉兆や生野や一々からはじまって、美々卯のうどんすき、すっぽんの大市など、どこにでも連れて行ってくれた。私が目の玉がとび出るほど高い料金をとられる一流料亭をあまり好まず、「うまくて」「安くて」「庶民的なところを」と注文するので、邱さんのご相伴が一番むずかしいですね、といつも水野さんからこぼされた。『あまカラ』でそういう待遇をされたのは、小島政二郎、池島信平、福島慶子、戸塚文子、森田たま、子母沢寛、吉田健一といった人たちであり、そうした仲間では私が一番年が若かった。

いつの間にか、そういう親密なつきあいになっていたので、水野さんが私のうちに挨拶にくると連絡してきたときに、私は池島信平夫妻と河盛好蔵夫婦もお招びしましょうと提案した。その晩のメニューを見ると、当帰鴨湯とか西洋菜炒牛肉とか什錦河粉とか、やや毛色のかわった料理が出ている。当帰は朝鮮人参と並んで中国人が好んで使う漢方薬で、お産のあとだとか、月経不順の女性の補血食に使用される。家鴨を一羽、八切れくらいにぶったぎって、胡麻油で炒め、その中に当帰と枸杞と生薑を入れて水を加え、二重鍋で二日間くらい蒸すのである。当掃や枸杞の強烈な匂いがしみこんでいるので、クスリ臭いといっていやがる人には駄目だが、いかにも精力のつきそうなスープであり、少し苦味のあるユニークな美味である。

 2 

←前章へ

   

次章へ→
目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ