池島さんは、私と話をするのが好きとみえ、のちに文藝春秋の社長になって社長室におさまると、第一線から退いて、よほど退屈しているらしく、私がたずねて行くと、社長室に私をとおして、亡くなった先代社長佐佐木茂索さんの遺産相続のことから紀伊国屋書店の経営のことに至るまで世俗的なことについて私の意見をきいたりした。文士で経済や経営のことまでわかる人は減多にいなかったから、池島さんは私の顔を見るたびに、
「菊池先生が生きておられたら、邱さんなんかおそらく一番可愛がられただろうな」
と口癖のようにいった。もっともそれはずっとあとになってからのことで、池島さんがはじめて私の家に見えたのは、『あまカラ』誌の編集長をやっていた水野多津子嬢が大阪から出てきて私の家へ挨拶に見えたときだった。ちょうど私が同誌に連載していた「食は広州に在り」が完結し、龍星閣から単行本になって出版されたばかりで、私にお祝いをいうのと、あとまた連載をするよう頼みにくる用事を兼ねていたのではないかと思う。
『あまカラ』誌のスポンサーである鶴谷八幡の専務の今中善治さん、息子の茂雄さんがご一緒で、それに河盛好蔵さんのご夫妻と池島信平さんのご夫妻もご一緒だった。ほかに『オール読物』の編集長をやっていた小野詮造さんと編集の高松繁子嬢が同行したが、これは池島さん夫妻をご馳走したというよりは、『あまカラ』のシンパが皆で大挙して私の家に押しかけてきたという感じであった。

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