第36回
ブランドケーエイ学11: 目利きはどこに?

あまりに有名な本なので、今さらおススメするわけでもないが、
サンテグジュペリの「星の王子さま」は、
大人が読んで納得がいく童話だ。
この話のなかで、大人は「数字だけでものを理解しようとし、
大事な部分をちっとも理解しない」と批判されている。
じっさいその通りではないだろうか。
ぼくらの仕事にも、コンペや相見積もりは避けられない。
もちろん数字ぬきで仕事ができるとは、ぼくらも思っていない。
だが、もっと重要な問題があったはずだ、
とときどき言いたくなる。

ネジとかビスであれば、一定の品質を保てば、
あとは数字の問題かもしれない。
われわれの仕事は、
つくる人によって成果物がまったく違ったものになる。
そのようなソフトを対象にしていながら
「おたくは100万高い」などと数字の問題として
扱われてしまうと、われわれも気持ちがなえる。

もちろん400万より、500万の方が100万高い。
それは「判断」ではなく、子どもでも判別できる事実だ。
肩書きのついた立派な大人が「判断」すべきは、
その成果物の違いが、はたして100万の価値があるかどうか、
ということにつきる。
経験と現状認識、将来の展望など、
その人の「人格をかけての価値判断」になるはずだ。
もちろん本来のユーザー層と年齢差があって、
単純に主観で決められないこともある。
そういうときは、判断をうまく委譲する仕組みをつくればよい。

それなのに、判断できないとか、
あるいは自分では決められないとか、
結局、値段を揃えさせて好き嫌いで決めようとしたり、
品質の差がわからないから安い方に決めました、
とはどういうことか?

そのような判断が、経営者にしかできないものだとしたら、
組織の中で働く人の、いったいどこに主体性があるのか、
という疑問が生じる。
働く人に主体性がないのに、組織体としての主体性を、
どうして社会にアピールできるだろうか?
工業社会から知識社会へと、
変わっていくことは誰もが知っている。
そうであれば、会社のなかでまず個人が自立しなければ、
ブランドを築くことなどできないのである。


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