第4329回
香港で日本のペテン師たちに訴えられて
香港の不動産が値上がりをはじめた時、私はそれを売って、
儲けたお金を持って日本へ戻ろうと考えたわけではありません。
日本に続いて韓国と台湾の経済成長がはじまり、
やがて四小龍と名づけて、
香港とシンガポールがその仲間に入りましたが、
私は次は中国大陸の番だと考えたのです。
はたしてケ小平の開放政策がはじまり、
全国的に工業団地の建設がスタートして
海外からの投資を歓迎するようになったので、
私は香港で稼いだお金をそのまま投じて、
北京、天津、上海、成都と、
それぞれの地方の主管に頼まれるままに、
ビル建設や事業を展開して行きました。
私の香港の総経理は家内の友達の弟を採用したのですが、
この男がのちに私を訴えた何人かの日本人と組んで、
自分たちの買う不動産の借入資金の保証人として
私が預けていた印鑑を私に無断で捺印したことがわかったので、
私が突然、印鑑を回収しました。
それと前後して中国経済にピンチが訪れたので、
連中はあわてて
自分たちの投資資金を回収しようとしたが間に合わず、
天津の保税倉庫や北京の超高級マンションに払い込んだ申込金が
焦げついてしまったのです。
私は手広くあちこち打った申込金を
どこでも好きな物件に集中するようにすすめましたが、
本人たちは、私が邱友会でこれらの投資が
倍の値上がりをすると保証したのだから、
お金を返せと裁判所に訴えただけでなく、
私のスピーチの録音から香港の新聞のコピーまで揃えて、
国税庁はもとよりのこと、三大新聞から文藝春秋やら中央公論、
さては私の本の出版元に至るまで、
匿名で香港から送り届けることをくりかえしました。
おかげで香港の裁判が終わるまでに10年近い歳月がかかり、
もはや訴えるところがなくなると、
今度は東京の地方裁判所に移動して私を訴えました。
それが終結するまでに何と10年以上の歳月を要したのです。
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